いのいぬ.com

漫画描きが、漫画や絵の事、作品レビュー、セミリタイアなどについて書くブログ

「死」を哲学する理由:コスパ最強の学問だから

f:id:inuo5:20191024170408p:plain

連日死について書いてきたので閑話休題ということで

死を哲学する理由について

一言で言えば「メンタルに対してのコスパ最強学問だから」です。

人生においてメンタルは非常に重要

当ブログではメンタル面の科学的対策等も載せておりますが

仕事にも私生活にもメンタルってのは非常に重要で、メンタル問題への対処法を知っている事はコスパが高いと考えているからです。

お金や人間関係、仕事や承認欲求といったものへのメンタル的なコントロールでさえもそう簡単なものではありません。それなのに、死を哲学し、メンタル面で「死」を理解し受容(受け入れる)事に取り組んでいるのは

「死」が我々が生きている世界、物理的な意味での生命としての最終地点であるからです。

つまるところ「死」を受け入れる事ができれば、それはメンタル対策の完成と同義だと言えるわけです。

実際、死ぬのが怖くない人がいれば、明日のお金の心配もしないだろうし、死すら超越する人は世俗的なつまらない価値観にも振り回されず生きていくでしょう。

サイコパス的に死が怖くないという事も含まれますが、「今この瞬間を生きる」という状態はサイコパスの脳にも見られる現象で、この「今この瞬間を生きる」という状態を作り出す事は、すべての感情のコントロールにも繋がります。

死を恐れない思考というと、異常者のような頭になるという事と捉えてしまう方もおられると思いますが。

ハサミをどう使うかは本人の問題であるというのと同じで、死を恐れない事と異常である事は、イコールでは繋がりません。

死を超越…というと、まるで不老不死を手に入れた人間のようですが、死の恐怖を超越、受容する事はメンタル対策として最強であるのは間違いないのではないかと思うのです。

恐怖は「受容」できれば解決する

しかしそうなると、死の恐怖なんて対処可能なものなのか。という疑問がわくかと思います。

恐怖は感情です。感情はすべてコントロール可能であるとボクは考えています。

感情への対処方法としては

  • メタ認知能力を鍛えて、一歩引いたところから感情を見つめる力を伸ばす
  • 目の前の事に集中する

こういった流れになります。

心理療法のACTや、森田療法、仏教哲学、エピクロスの死生観、ニーチェの超人思想など、感情に振り回されない生き方を教えてくれる哲学や科学は世の中にたくさん存在します。

死の恐怖はその中でも強い感情である事は事実ですが。

キュブラーロスの「死ぬ瞬間」、によると、いずれ受け入れる事ができてしまう事がわかっています。ただ、この場合諦めからくるものとなっていますが。

どんなもの、例えそれが死という最終イベントであってもソレに対する恐怖は「感情」である事に変わりはありません。

他の感情と同じように、対処可能なはずだと考えています。

感情対処だけでは飽き足らず、死を哲学する理由

ただ感情を対処するだけなら、上に上げたとおり、メンタル対処法を学べばいいだけの話なんですが。

死はあまりにも大きい。そしてソレ故に興味をそそられる。それに、死の恐怖を乗り越えるには、ただただ「受け入れよ」と言われてもわからなすぎて難しい。

というのが元々のボクの感想でした。

だから哲学すっか、という事になったわけです。

知れば向き合う事ができるのではないか…と。

現状、向き合う事ができているようにも感じます。もちろん死の恐怖を超越するなんてところまではいけていませんが。

学び、考える事でその緒くらいは死ぬまでに掴めるんじゃないでしょうかね。

死の哲学は真理にはたどり着けない:自分の答えが必要

死は体験する事が不可能なものですので、他人の話や時には宗教観にも触れつつ考えていかなければいけません。

正直、宗教は苦手です。

西洋哲学者の多くが、キリスト教の流れを受けています。

ニーチェはそれに嫌というほど反発している人なので、日本でも取り上げやすい存在ですが、だからといってニーチェの思考のみ研究していては死を知る事はできないと思います。

梵我一如などの、ウパニシャッド哲学のような西洋以外の古典哲学にも触れつつ、自分なりの答えを出すことでしか受容はままならないのですが、

ラッキーな事にそれが「真理」であるかどうかを考える必要が無いというのが「死を哲学する利点」でもあります。

死は言語として他人に伝えるのは不可能でしょう。

エピクロスの言葉を借りるなら、死は人生に存在しないものです。死の状態になった時、我々は死んでいます。つまり、我々の人生が終わらなければ、死は存在しえません。つまり人生の中に死は存在しないという事になるのです。

つまり、死が存在しない世界(生の世界)に住んでいる我々人間が、他人(生きている)から「死とは」と説かれたところでそれをイメージすることは不可能なのです。存在しないものを体験していない人が体験していない人に存在するように語るわけですから。

自分で理解し、受容するところまで学べばそれがゴールです。

他人に伝えるにはせいぜい「その考えに至るまでの材料」を提示するところまでが限界でしょう。

ボクは哲学者ではないので、平易に書いていければと思って、ブログで乱文を出してますが、そのうち簡素化して漫画にしたいなとも考えています。

伝える事ができないものを伝えるというのはライフワークとしてなかなか歯ごたえがありますし。

まとめ:死はいずれやってくるから「受容」できるまで哲学しておいて損はない

最後ちょっと話がずれましたが。

死はかならずやってきます。この三次元、時間を足して四次元の世界の中で生きている我々は生命が朽ちる日がかならず来るという事になっています。

最近は、それは本来恐れるものではないのではないかと思い始めています。

物理学としても、化学としても、僕らの体は死ねばバラバラになってまた別の何かの材料になるだけですし。

意識の喪失についても、意識とは何かという哲学を行わなければいけません。この世界での「我」を意識する行為がそもそも本当に真理であるかも疑問が湧いてくるわけです。

僕らは世界のサイクルの一部であり、そこに生死の話は関係なく、生きていようが死んでいようが、そのサイクルの一部として回り続けている物質です。

たまたま生きていることで、人間という塊になっていますが、それは途方も無い時間、途方も無い空間の中で一時的にそうなっているだけの事。

その一瞬を失う事になぜそんなに怯えなければいけないのか。疑問を感じ始めています。

哲学ってのは面白い反面、人らしさみたいなものを失うのではないかとも思えてきてますが。「人らしさ」なんてものは他人からの評価に過ぎないわけで、気にする必要もないのでしょうが。

今まで学んで、こりゃよかったわと思った事の一つに「死の哲学と科学」は間違いなくノミネートされました。

他は、運動の大切さとお金と学習法ですね。

ということで

なぜ死を哲学するのか

  • メンタル対策としてコスパ高い
  • 万人にいつか訪れるものだから無駄にならない
  • これほど深いテーマを考え、哲学する事は、面白い。

こんな感じですかね。