死への恐れは喪失感であるというのが前回の話
喪失感が発生するのになぜ人は自殺をするのかというお話。
自殺する理由:未来を「お先真っ暗」と捉えているから
自殺する理由は、単純にお先真っ暗と捉えている状態だからですね。絶望というか。
「喪失」を恐れるのであれば、自殺は発生しないはずですが、「自分の人生、マジでお先は真っ暗である」と捉えてしまった時点で喪失への恐怖が消失するわけです。
故に人は、死ぬ動機を得てしまう。
しかしこのお先真っ暗には2種類あるんですな。
- 事実である場合
- 認知の歪みである場合
この2つ。
「お先真っ暗」が事実である場合とは
- 不治の病、怪我で先が無い、生きている事で痛みや苦痛に苦しめ続けられる状態
安楽死論争はもっとしっかりやるべきだと思う理由は
命というものの価値を「素晴らしいもの」としてしまうことで
生きている事が非常に苦痛である人も強引に生命をつなぐことが「人の道理」となってしまっているところにあると思います。特に日本の終末医療ね。うちのバアちゃんも四年間管に繋がれて、動けずに喋れない状態でした。
痛みや苦しみで辛いのに、生きている者たちの「生こそが正しい価値のあるもの」というエゴで生かされる始末。
自分で食事ができなくなったら、胃に穴を開けてつながれたり、自由が無いのに、ベッドに残りの人生を縛り付けられて生きる。
ただ終わりの日まで、生きているだけ。
安楽死論争でかけているのは「命」の価値を本質論的に捉えて、本人の意思を健康な人たちの民主主義によって判断されているところではないかと思うのです。
死を死として、ただ事実として受け入れ。
自分の命をどう扱うかは、本人に託すべきではないでしょうか。
とはいえ、事実ではない場合は本人に託すべきではないのです、それは次の話。
「お先真っ暗」が認知の歪みである場合
認知のゆがみってのは、認識が極端になってしまってる状態ですね。
外から見れば、「なんだそりゃ、その程度か」って話も一時的に絶望のような状態に陥ってしまう時。
精神疾患なんかもこの括りになりますね。
- 大好きな彼氏に振られた
- 受験に失敗した
- 巨額の借金を背負ってしまった
- 独身
- いじめ
- 両親、大切な人との死別
- などなど
正しく対処すればやり直す事が出来るのに、その方法がわからなかったり、精神疾患の状態に陥り思考がブロックされてしまうような状態で、抜け出し方がわからず命を捨てる。
ざっと調べたところ、日本の自殺の多くがこの「認知のゆがみ」が原因のようです。(ここの認知のゆがみは医学的な話ではなく、ボクが今回2つのカテゴリに分けるために表記しているものであって、正しい定義とは違うであろう事をご了承ください)
調べたデータでは、「健康問題」として対処されているところで「うつなどの精神疾患」と「身体的な健康問題」が同じ担っているものが多く、正確な判断はできませんし。身体的な健康問題による鬱がどうカウントされているのかもわかりません。
健康問題での自殺数は他の動機に比べて多いので、正確な数字や比率を出すのは、ボクのデータ分析能力では困難だったのでぼんやりした話になりますが。
生命がこの先終わっていくであろう、もしくは苦痛に耐えつつ生きていかねばならないであろうという 命を紡ぐ事そのものが苦痛で溢れている状態ではないのにも関わらず自殺してしまう事象が多いという事は確かです。
事実の自殺については、本人の意志を尊重すべきであって、道徳的、本質論的に命をどうするかといった話で健康な人が判断すべきものではないという話は上に書きましたが
認知の歪みによる自殺は、それが事実でないという事、乗り越える事が可能である事を自殺志願者に伝える事で防ぐことが可能です。
これは医学的には精神科医がやっている仕事になりますし、ボクは自殺を防ぐ方法を話したくてこのエントリーを書いているわけではなく、「死とは何か」と一人で哲学するために記しているので、これ以上詳しくは触れません。
ただ、認知のゆがみによる死は、他者の価値観や、世の中の仕組み(お金や社会保障制度)についての知識不足によって発生しているものが多いのではないかと感じます。
当ブログではミニマリズムというか、お金や時間を浪費への対策として、知識武装と自分の価値観と向き合う事を進めてきましたが。これは命を守る事にも役に立つのかもしれませんね。
まとめ 自殺してしまう理由:事実と認知の歪み
自殺の原因は何か
- 事実
- 先が苦痛 or 死を待つだけの未来である時
認知のゆがみ
- 知識武装や価値観の整頓で回避出来るが、本人にとってその瞬間は絶望となってしまう事柄
事実である場合
- 安楽死について、他人による道徳や宗教的ではなく、本人の価値観を尊重すべきではないか。
- 認知の歪みである場合
- 知識や価値観の整頓を行う
- 助言は精神科医など、専門家に従うのがベスト。
こんな話でした。
死を哲学し続けて行く中で思った事ですが、死はたしかに恐怖はあるものの、受け入れ可能な概念なのではないかと少し光が見えてきました。
もっともクリーンヒットしてるのは、生命を物質としてしっかり理解することと、梵我一如な思想なんですが。
梵我一如ってどうしてもオカルトちっくに聞こえてしまうから、これを人に伝えるのはすごくこんなんだなぁと。だから物質として死ぬと自然のサイクルに戻るみたいな話の方がしっくり来るのですが。
散逸構造としての人間の存在は、生きていても自然のサイクルに組み込まれてるわけですよね。
僕ら人間は3次元の世界に生き、生きる事と死ぬことに線引をしていますが。そもそもそこに線引なんて存在してないんですよね。
でもこれをどう表現すればいいのか。誰かの言葉を借りられればいいんだけど、調べている限りしっくり来る言葉が梵我一如しか存在してなくて。そのスケールのデカさが、あまりにもオカルトすぎることと、発祥が仏教以前の宗教である事から古すぎて他人に伝えるには「うさんくささ」が拭えない。実際は、科学的な死、生命、世界の原理と同じ話をしているだけなのにね。不思議だよなぁ。
まぁ哲学する理由は人に伝える事ではないから、それは別に良いとしようか。ブログに書いててこんな事言うのも、なんだけど。