5時起きの人間なんですが、この季節になると5時は太陽が登っていないので
起きても朝なのか夜なのかわからないという難点がありますねぇ。
朝の時間チェックのためだけに、光目覚まし時計出さないと。もしくは寝る時間遅らせましょうかね。
それはおいておいて。
今回は、自分がやってきた事はエピクロスの哲学を追従してたんだなぁと思ったという話。
エピクロスとは
これは先日書いたので、その記事にまかせておきたいんですが。
不自然で、不必要な欲求に惑わされず、心の平穏(アタラクシア)を大切に今を生きよ
と説いた人で、快楽主義者という位置づけの人です。
念の為、「自然で必要な快楽」に対しての快楽主義者であって、目の前の快楽にすべて忠実であれという主張ではありませんのでご注意ください。
ボクは時間、お金、死を知る事に注力してきた
ボクがエピクロスを知ったのは、「死について」学び始めてからです。
お金と時間は直感的だったのか、何が原因で最適化していこうと考えたのは忘れてしまいましたが。
結果的にエピクロスの主張を踏襲する事になったのは、一つ人の生き方として、比較的最適化されてたという事と捉えて良いのではないでしょうか。
お金と時間について
ボクはこれまでこのブログではメインにお金と働き方について書いてきました。
最近は死について書いています。
お金と時間は非常に関係性の深いものです。
お金は価値の代替手段であり、ものとの交換を最適化したものです。
お金は特別視されがちですが、お金がなかった頃は、自分ができること、相手が提供してくれるものを交換していました。
それを円滑化させたツールに過ぎず、お金そのものには本来価値はありません。
ただ、この円滑化のためのツールが一つのスケールをもってしまった事で、人間の生活にとって必要な尺度となってしまいました。
そのため、お金について考えずに生きる事は困難です。
ものを食べるためにも、自由に生きるためにも、お金をどうやって得て、どう使うかを考える事は必要不可欠です。
これを行わなければ、パーキンソンの法則よろしく、「あるだけ使ってしまう」という状態に陥るだけ。
これは時間も同じ。
時間の使い方、お金の使い方を理解することは、その時代で生きるために必要なものを手に入れるためのルールを理解するという事です。
裏技として、自給自足するという手段はなくはないですが、文明を捨てるという選択をしても、社会の恩恵を受けている以上必要最低限の税金の支払いが発生するわけで、それをすべて免除してもらう状態は他人におんぶに抱っこで生きていくということ。
それはあまりに身勝手であろうと思うのです。だからこそ、よく考え、自分が納得できる形で最適化する事が重要だと思います。
欲について
エピクロス哲学にしても、お金の使い方を最適化するにしても
欲について考えないわけにはいきません。
エピクロスは欲を3つに分割したという話はいぜん書きましたが、改めて書きますと。
- 自然で、必要な欲求
- 自然で、不必要な欲求
- 不自然で、不自然な欲求
この3つです。
マズローの欲求5段解説で言えば、下段に行くほど、1に近づく感じでしょうね。
しかし我々現代人は(インターネット普及から更に) 多くの場合3に振り回されています。
自分をよく見せるためにブランド品を購入し、メディアの情報を鵜呑みにして不要な豪華食品を食べ、謎の粒状のものを食べるために行列に並び、SNSのフォロワーやいいねを気にして生きている。
大昔にも体を装飾品などで固めていた人はたくさんいたでしょうから、人に備わっている欲ではあるのでしょう、ですから自然ではあるかもしれませんが、間違いなく生きる上では「不必要」な欲求です。
この分類を上手く扱って、「必要最低限」を心がける。
まさに欲のミニマリズム的思考。
浪費にこそ人生の価値が見いだせるという人もいます。たしかにそうかもしれませんが、お金を使う事でこそ、という意味ではないとボクは考えています。
誰かとともに時間を無駄に過ごす事以上の価値はおそらく存在しない。
エピクロスも友人の大切さについて説いています。
時間もお金も、相手がいなければそれは多くの場合、無駄遣いになってしまうのではないでしょうか。
友達がいないボクが言うのもなんですがね。
ちょっと話を戻しますと。
この欲の分類によって、余計な出費と労働時間を減らし。
お金と時間を最適化するのはセミリタイア思考の人たちによく見られる事ですし、お金持ちと呼ばれる人たちも実行している事です。
たしか、となりの億万長者、私の財産告白なんかはそういった主張でしたね。
死について
これはまだはっきりした答えはでていないですし、はっきりした人に伝えられる答えが出せない事もわかってきました。
エピクロスの言葉も借りつつ、現在つかめつつある理解をまとめると
- 死は生きている間には存在しない。死んだ時その恐怖を感じる生もない。考える意味のないもの
- 原子レベルで自分の存在を認知するならば、死は「終わり」ではなく「変化」である
- 死への恐怖は受け入れが可能
こんな感じ。なんでこういう事になってるのかは、連日投稿してる死についてのカテゴリを読んで貰えると幸いです。
正直完全に乗り越えるのは、難しいと思います。
まずは感情のコントロールへの練習(マインドフルネスや脱フュージョンなどの心理療法)を優先して、「パニック」への対処を体得しないと、本当に死ぬ時は、本当に一瞬でその恐怖に飲まれてしまうと思います。
死を哲学する事は、無駄ではなく自分の理解できる範囲で「死とはなにか」という答えをもっておくことが
エピクロスの言うアタラクシア、心の安静に繋がります。
生きている以上避けては通れないものなので、エピクロスの言うとおり、過剰に考えて不安になることもないですが。
考えないまま、答えを持たないままは難しい。
我々が「死」の存在を知らなければ、それも許されたのでしょうが「人は死ぬ」という事実を知っている以上、向き合っておいて損はないのではないかと。
心の平穏のためにものね。
まとめ
エピクロスがセミリタイア思考にベストマッチやんって話は前にかきまして。またそんな話でした。
まとめると
- お金と時間、死について学び、考え
- 自然で必要な欲求に忠実であり
- 心の平穏を求めていきよ
まさに、シンプルライフ思考ですねぇ。
最近長文駄文がすぎるので、テーマしぼって短くしていきたいですなぁ。
最後に:不自然で、不必要なものが世の中にあふれているので、それには本当に注意しましょうね。
- SNS
- 芸能ニュース
- 豪華飯
- ブランド
- 過剰な承認欲求
- 過剰な金銭欲
- インターネット、不要な情報
などなど。
自分で「自然か必要か」を問うてそれに時間とお金、思考や心を使うべきか、精査しないと人生なんてあっという間だし、メンタルが摩耗してなくなっちゃうよ。