最近、親切とか他人への援助とかそういうものの話を書いてるので、頭おかしくなったんかと思われてそうなので弁明しますね。
親切とか、他人のためのお金を…って思考はセミリタイア思考とはずれていますね。
そもそも、僕がセミリタイアを目指していた理由は
「楽に生きたい」からです。
セミリタイアするかしないかより、心の平静を保つのが重要
では楽とは何か。
それは「心配する事が無い事」だと思います。
そして、それを達成する条件は
- メンタルの強さ
- 不測の出来事への対応する力(お金含む)
この2つかと。
それ故に
「必要以上のお金はいらない」というのは確かに正しいのですが
必要以上に持っておくことは、心の平静を保つ上で意味をもつと感じております。
嫌な仕事はしなくていい
当たり前だけど、だからといって嫌な仕事を続ける必要なんてないと思います。
僕は運良く、漫画を書くという糞遊びみたいなことを仕事にできたので、必要最低限のお金があるからといって漫画を描かないという選択肢は取れるものの、別に描きたいなら描いてもいいか。と感じられるだけの話。
いやではないから、続けられる。もちろんやめてもよい。
ただ、やりたい事でもある。生きがいでもある。
だから仕事をする。そんな感じ。
人を救うという心理
以前にも書いたことですが、以下はQuoraを読んでいて気づいた事です。
この世界には運の悪い人たち(親の経済的理由や、事故、事件、病気などによる不運で人生がうまく回らなかった人)のもいて、一歩間違えば自分もそうだったわけです。
正直「自己責任」だと思っていましたが、外的要因によって可能性を奪われる事は決してその人の責任ではありません。
もちろんそれをはねのけられる人もいるけど、どんなに努力してもうまく歯車が噛み合わない事は十二分に有り得る事です。
僕はこの視点が完全に抜けていたな、と反省しました。
自分だけよければいいか。と思っていました。
もちろん、自分の人生を犠牲にするほど、他人のために生きる必要はありません。
ただ、自分が余分に、なおかつ楽しんで働ける仕事についているならそれを続けても別にいいかと思えてきたのです。
それで、税金が発生して、お金が回って福祉が充実するのなら。
余ったお金を少し寄付して、その寄付によって自分もオキシトシンが出てメリットを感じられるなら。
共同体感覚は心の平静にとっても重要
アドラーは、「承認欲求より共同体感覚を養え」と主張してるそうです。
これは社会の一員である感覚です。
承認欲求は「自分を見て!自分を褒めて!」ってやつですね。
他人のために…は偽善ですが、その行為や思考は共同体感覚を養います。それは結果として自分の心の平穏のために重要な事だと感じているからそうしてるだけ。
結局は「自分のため」であるわけです。
僕は以前、自分にメリットがないのに親切してる人は頭がおかしい人か、優しすぎる人かなにか特別な人なのだと思っていました。
ですが、親切行為はその行為に余りあるメリットが自分に返ってくるという事を知り
これは得だと感じているからやっているだけで
別に、意思が強いわけでも、宗教に目覚めたわけでも、なんでもありません。
自分が得をしたいだけです。
稼ぐにせよ、人間関係にせよ、他人へ関心を向けられるかどうかは重要ですからね。
結局社会の中で生きてる以上、どこかで他人と関わるわけですから、「自分だけ」に意識を向けていると、どこかでうまく回らなくなってくる気がするんですよ。
そういう仙人みたいな生き方は憧れるといえば、憧れますけどね。