隠れて生きよ ~いのいぬ.com~

漫画描きが、漫画や絵の事、作品レビュー、セミリタイアなどについて書くブログ

科学的に正しく生きても幸福にたどり着ける保証はない理由

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蓋然性を超えて必然性にたどり着くことができないという帰納法による分析の限界について、しれっと語られてる。

金はらってまで科学的な幸福おいかけてるの馬鹿らしくなるでしょ。

なんで僕が仏教的な幸福論(執着を脱する)を説いてるのか、それは万人共通性があると思ってるからなんだけど、

これは特定な要素を必要としてないところがポイントで。

問題解決型の科学的幸福論に限界があることは、昨今の第3世代認知行動療法の世界ではもはや認めざるを得なくなってる状況なんじゃないかと思ってる。

事実、仏教的観念が心理療法の世界において、抑うつの脱却や、幸福を獲得する手法として用いられてるのはその証明であると言えるんじゃないだろうか。

つまるところ、

「そのままに感じ取る力を鍛える」

以外にどんな状況においても万人に共通する、平穏足り得る状況を作り出す事ができないんじゃないかって事。

例:物理的に不可能な場合はどうだろう。

例を出すなら、現在両手両足が奪われた人間が、目の前に居たとして、

その人に幸福になるために「運動しなさい」とか「友達を作るためにバーに行きなさい」と言って何になるのか。という話。

という話。

すべての人に共通しない、帰納分析的な結論を「万人共通」であると定義はできないってこと。

この本で著者は、交通事故で体の自由を失い、絶望していたところ、プラユキ師らの教える瞑想法によって幸福感を取り戻したという話を語っている。

何かを獲得する人生こそ、幸福であるという事実を信じ切っている人は読んだ方がいい本。

所詮、満たされたものが語る「科学的な幸福論」は、満たされるべく条件をもった人にしか適用できない。

孤独について:精神的な問題にこそ、必然性が適用されないと思う。

あくまでも上の例は物理的な話だけど。

これは物理的な話だけではない。

僕のブログでは孤独を取り上げるが

孤独は科学的に体に悪いとされている。タバコレベルだそうな。

前述しておくが、孤独は感情なので、瞑想で対処ができる。割と簡単に。

故に対処方を学べばよしという事で先に進むが。

孤独である事は不幸であるという科学は、孤独を愛する人には適用できないし。

天涯孤独であろうが、個人が幸福を感じる精神状態を作りだされば、何の問題もないという事実を無視している。

統計的にみて「人間って孤独だとメンタルおかしくなるみたい」って話にすぎない。

これを統計的にみて、蓋然性はある。が、必然性はない。という事で、敷衍すると

  • 一般的に孤独は体(メンタル)に悪いが、 なんか平気なやつもいる

という話。

その「平気なやつ」に僕はおそらく当てはまる。

というか、当てはまらなかったとしても、対処ができる。基本的に、感情は瞑想で処理ができる。

マインドフルネスや、アクセプタンスやセルフコンパッションが心理療法で持ち上げられているのは

事象や感情、自己の定義を、連続性をもって因果が絶対的なものだとして認識している限り、人間は苦悩するという

ブッダが2000年以上前に説いたものを科学が医学として「起こりうる」としたからであって

別に宗教が正しいと話してるわけじゃない。

しかし、これもまた科学である以上、そこには蓋然性はあるが必然性しかないという話しになってしまう。

なので、あくまでも

「個人の自身に対する考え」としてしか説明のしようがないが。

瞑想で、幸福感は得られる。しかしそれはキルケゴールのいう美的実存のような「獲得するもの」ではない。

という話し。

まとめ

瞑想は感情の処理とその結果もたらされる幸福(定義にズレがあるのは事実だが)に対しては、万能だと思う。

しかし、それを言葉でいくら説明したところで

この僕が「真理」と思っているソレは、本当に真理である事は証明ができない。

カントが言ったように「人はモノ自体には到達できない」からだ。

人間はそれを感じ取った時、それがモノであれ、観念であれ、その人間のフィルターを通す事になる。

以前「説明しても理解されるかどうかは相手次第」って話しを書いたけど、まさに今回の話しもそれで。

最後まで読んだ人の中にも「科学より宗教を信じろって事か」みたいな誤解をして去っていく人も多いだろうと思う。

所詮、他者理解なんてそんなものだと割り切った上で、もう一度いうが。

幸福の定義は人それぞれだが

  • 幸福の定義が、苦痛の無い世界とし、そのソリューションを2000年以上前に説いた人間が存在し(おそらく存在し)
  • しかも手法が体系化されている。
  • しかし、活かせるかどうか、または活かすかどうかは、個人の決断によるところだろう、

という話し。

僕は幸福になるための必要条件を語るより、幸福は苦痛のない世界であるとして、「捨」の精神をもって考えたほうが万人への共通的事実として確立しやすいと思う。

つまり、科学的な「こんな人幸福だよね」とはアプローチが完全に逆だ。

科学的な幸福行動とやらを信じたいなら信じればいい。

しかし、いつかは、欠乏や、執着、喪失への恐怖に惑わされる日が、きっとくる。

その時に、「あーあのクソブログで書いてた事の意味がわかった」と思ってもらえたら幸い。