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死は「終わり」ではなく「変化」と捉えるのが自然ではないだろうか

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死について哲学、科学と色々と学んできて

死についてのパラダイムシフトが起こりました。その認識の変化とは

死は「終わり」ではなく「変化」と捉えるのが自然ではないか。

という事です。

言葉をどう紡げばいいのか、謎だらけなので駄文になることを先にお詫びしておきます。

世界にとって「生命の死」は循環過程の一つにすぎない

僕ら人間の体を世界と仮定すると、個体である僕らの死は、細胞一つが死ぬようなものだと思います。

梵我一如における、ブラフマンを全、アートマンを個体、個体の生命と考え…全は…宇宙、世界、言葉によっては胡散臭さが出ちゃうので難しいところですが、今回は世界でいきましょう。

世界は原子で構成されています。科学の細かいところはわからないので、原子は世界を構成する物質の最小単位として取り扱います。

我々人間も原子の塊でしかありません。

世界の中に原子は内包されており、原子は一定の塊となり物質を作っている。

その物質は世界のエントロピーを増大させるための散逸構造、つまりエネルギー循環のための加速器であるという事は、何度書かいてきました。詳しくは過去記事で

我々は世界と同じ物質で構成されており、それが循環している流れで我々のような生命が発生している、世界の中の一部にすぎず、「大きく(小さく?)原子レベルで捉えるなら同一」であるという事。梵我一如としても、物理学としてもこれは揺るぎない解釈です。

人間を細胞であると仮定するなら、世界にとって人間の死は世界が世界として「生きる」上で発生している自然現象にすぎないわけです。

生命が、個体として「生きている」という事を過剰視するのは細胞が永遠に生きたいと思うようなもの。これあまり例えたくありませんが、某病気の細胞に似てませんか。死なないあの細胞。

永遠に生きたい。死にたくないという思いは、世界にとって、不自然な事。世界にとって世界の一生を道半ばで終わらせる存在になりたいと願うようなものなのかも

とそんな事を思ったり…と不老不死への欲求が世界にとって不都合かどうかって話になってしまったので話を戻します。そんなこと考えてもわからないですし。

人の体で細胞が死ぬ(アポトーシス)のと同じで、人の死はその生命の役割と同じようで、世界をよりよく循環させるために必要不可欠なものです。

死とは、ただそれだけの話し。

我々人間は、この「死」を個体単位で捉えています。ソレ故に、「死」を「終わり」と解釈してしまいがちです。

しかし、「世界単位」で考えると、死は循環でしかないわけです。

循環されるという理解は、なかなか肝な部分です。

消失であるか、循環であるかは、感覚的にも大きく違います。これを、「終わり」と「変化」というもう少しわかりやすい単語に置き換えたのが今回の話。

消えてしまうのではなく、循環されるだけであれば、それは形を変化させる程度の話なのではないでしょうか。

人という形の役割を終え、人という形から、バクテリアに分解され別の形になるだけ。

これがなぜ怖いのか。

それは以前記事にしましたが…喪失への恐れです。

その最も恐れられているのはおそらく、「意識」でしょう。過去記事では書いていませんが、「自分」を失う事への恐怖が大きいのではないかと思います。

こうなってくると、「意識とは何か」というまた面倒くさい哲学が始まるのですが。

そもそも意識を失う事は元来さほど恐ろしいものではないはずです。

人はみな寝ます。寝なければいけないようにできています。

エピクロスの言うところの「自然で必要な欲求」です。

睡眠は、意識が戻ってくるから眠っている わけではありません。必然的に眠るようにできているのです。

眠る行為は一時的であれ意識を手放す行為です。見方によれば「死ぬ練習」とも取れるわけです。

意識を手放す行為自体は恐ろしいものではないという事ですね。

ですが、それを「再獲得」できるかどうかの違いがコレほどに恐ろしいものとなっている理由はなんなのか。

これは妄想にすぎないのではないかとボクは思います。

みなさんは、誕生の前、恐怖ありましたか?ありませんでしたよね。そもそも感情を抱くすべが無いわけですから恐怖を感じる事が不可能です。

死はその時点で、意識を喪失する可能性が高いです。(可能性高いですと表現したのは、「意識」の定義を今回していない事と、意識が残る可能性が0である事は確認のしようがないからです)

意識を喪失したあと、再獲得するための恐怖を感じる事ができないため、「再獲得への恐怖」は存在しないという事になります。

エピクロスが言う「死は生の状態では存在しない」という話は、まさにこれで、生でしか感じ得ない「感情」というものを死んだ後に感じる不安を、生の状態の時に疑似体験して怯えるのは時間の無駄以外の何物でもないですよね。

そんなもの恐れるのおかしいんですが、みんなそれを怖がってる。

こんなもの、世界からすればただの循環でしかないのに。言う慣れば、世界にとっては、ご飯を食べてうんちするようなもんですわ。

この世界は何次元なのか

ちょっと余談

この世界は何次元なのか

ぶっちゃけこれはボクは知りません

現在僕たちが生きている世界は、3次元と言われていて、それに時間の概念を足した場合4次元であると捉えるそうです。

ひも理論では11次元?とか、そもそも僕らが生きてる次元は2次元だと主張する科学者もいるとか。

とにかくわかりません。

科学で判明していない次元の定義についてわからないまま考えても仕方ないので、それはおいておいて。

二重スリット実験はご存知でしょうか。

知らねぇよ!って人はコレ見て。

www.youtube.com

2つの穴に向かって、電子をぶん投げたら、観測したかしてないかでその先の壁に現れる模様が変わっちゃったぜどうなってんだよ!って実験。

これを見ても分かる通り、僕らの生きてる次元の感覚だとわからない事が、ミクロな世界ではおこってるわけです。

僕らが死を迎えた時、3次元的(四次元的)知覚でもって「意識の喪失」を恐れるのは、知的生命体としての本能なのかもしれませんが、死んだ後どうなるかは本当に未知数です。

もしかすると「意識」はまだあるかもしれません。ちょっと怖いですが。

意識といっても、僕らが今「意識」と思っている意識とは全く違うものかもしれないですしね。

とにかく死んだ後というのは、どうなるかわからない。

物質としてはバクテリアに分解され、別のものになるというのが、人間が知覚できる科学の範囲で、確かに起こっている事。

しかし、ソレ以下(以上?)のレベルの次元ではどうなるか、それはわかりません。

不思議だらけです。

エピクロスの死生観に戻りますが、要は「生」の状態で考える(知覚する)以上、死後どうなるかという事はわかり得ないという事でしょう。

今後科学が発展して、死後の意識や、生命、魂?とかそういうの実はあったんやで!とかなったりするかもしれませんが、今現在わかってないものはわからないので考えるだけ無駄です。

仮設を立てて証明しようと思うなら、科学の道に進めばいいけど、結局我々がこの次元で知覚し得ないものは知覚しようがないでしょうから、おそらく「人智を超えてわからないものはわからない」んですわな。

でも言い換えてしまえば、死が怖いのは、究極的にあh「ただわからないから」とも言えます。

ボクはラグビーのルール、知りませんけど、別にラグビーは怖くないです。(ラグビーのルールと違って、死は知る方法が死ぬ以外ないという難問ではありますが。

言いたかったのは、わからないからって拒絶しなくていいのではないでしょうか。受け入れてしまえば。

それが自然なのだから。

世界が原子の集合体であり、人間も原子の塊であるという事を理解すれば、死して自然に帰る事も生きている事も、そこに隔たりは無いのではないかと思えてきたのです。宇宙と私は一つ!みたいな話だから、宗教臭しますけど科学的な事実ですし、宗教にハマってるわけではないですよ。

意識への執着は、生によって発生してるので、死して意識に執着することはなくなるわけですしね。

死ねば意識を失い、それへの執着は消滅する。つまり死ねば死ことへの恐怖、苦しみは喪失するという事ですし。この恐れは妄想の中でしか成立しないものなんでしょう。

まとめ

世界の一部として発生している生命体である自分の循環の仮定を怖がるというのは、不自然な事なのではないか。知的生命体である人類のバグなのではないか…?

正しく捉えるには、どういうワードが適切なのか、それは「終わり」ではなく「変化」と捉えるのが良いのではないか、といいうのが今回の話でした。

難しいテーマなのでボクの文章力じゃ、まとめるのも困難ですわ。

でも「終わり」と考えていた時と違って、個人的に受容度がぐんと上がったので、死を受け入れるための言葉のチョイスは重要かなと記事にしてみました。