今回も死について。
死が怖い理由の一つとして「喪失」への恐れがあるようです。
持っているものを失う事への恐れですね。行動経済学として損失回避、プロスペクト理論は有名ですが。
「失う」ってのは本能的に回避してしまうもので、「死」によっての損失、喪失は回避不可能であるが故にその恐怖心が大きくなってしまいがちなのかもしれません。
死によって失うものはなんなのかちょっと考えてみます。
命の喪失への恐れ
まずは命。
持っているものを失う恐怖で最もたるものは、命でしょう。
命とはなんなのかってのは、以前の絵本レビューに書いてあるので合わせてどうぞ。
命、生命とは、宇宙のエントロピー増大のための加速器にすぎないわけですが、主観的に捉えた命は、個にとって必要不可欠なものであり、これ無くして個は成り立ちません。
故に命を「持っている」という表現が正しいかどうかというのは正直しっくりきていないのですが、とりあえず今回は命を所有しているという前提で話しを進めます。
我々人間、生物は誕生した瞬間に、本来もってなかったもの(命)を得てしまった事で、それを失う事を恐れるようになってしまっているわけです。
元々は持っていなかった命を得てしまったことで、それを失うことを過剰に恐れるってのはよくよく考えてみるとおかしな話でもあるんですが。
これを失うという事への恐怖が死の恐怖の一つ。
当たり前といえば当たり前の話。
- 解決策:命を失うという事を受け入れるしかなし。理解、体験は不可能。
繋がりや所有の喪失
次は「つながり」「所有」の喪失。
生の状態でしか獲得していられないものたちの喪失への恐れです。
- 人とのつながり
- モノの所有
- 権力や地位、名声など
こういったものは「生」ありきのものなので、死んでしまった時点でそれは喪失してしまいます。
たしかに、名声は残るのですが、それを体験するためには「生の状態」でなければならず、死んでしまった時点でそれらの価値は喪失するのではないかと考えます。
人とのつながりやモノの所有は言わずもがな、生きていてこそのものなので、死と同時に喪失してしまいます。
ドラマや映画なんかで「本当の死は忘れられた時だ」なんて言いますけど、アレは生きてる他人の理論なので本人には関係の無い話しですよね。
生命が尽きた時点で、その本人は自分が忘れられているかどうかを知覚する事が不可能であるため、生命が尽きた後、覚えてもらっていようが忘れられていようが、それを確認する術すらないわけですから。
生命が尽きたその時にすべて喪失してしまいます。
- 解決策:世俗的な価値観を「本質」のように捉えないこと。世界は無価値であるという事実を受け入れる
未来の喪失への恐れ
この先の未来、もっと楽しい事があるかもしれない。
でも死んだらそれも終わり。
人間には直線本能ってのがありまして、この先もずっと命が続いていくと思い込んでいる人が大多数だと思いますが。
それは嘘っぱちで、いつか人間は死んでしまいます。当たり前ですが。
でも人の心理ってのは恐ろしくて、ずっと生きていられるような感覚になってしまう。
だから、5年後10年後を見据えて生きてしまう。
でも、それは絶対ではありません。
本当のところ、明日が来るかもわからないのです。それどころか、一時間後生きているかもわかりません。
現実に「未来」は存在していないのですから。
目の前にあるのは「今」だけ。
心理療法の類、またエピクロスの言うところの「存在しない事に頭を悩ませてるのなんて時間の無駄じゃん」って話し。
現在、過去、未来、で知覚できるのは「現在」のみです。
しかし、人間は時間の感覚を持ってしまったことで、過去という経験済みの事だけでは飽き足らず、未来まで妄想の中で体験するようになりました。
ソレ故に不確実で経験できるかすらわからない未来まで「獲得」してしまうのです。
そのため、それを失う事を恐れるようになってしまったのではないでしょうか。
- まだ見ぬ恋人との出会いや結婚
- スキルアップ、社会的な成功
- 子供の将来…etc
そこにないものを、現実で体験したいという欲が発生し、死ねば、そこに自分がいなくなってしまう。
その恐怖が未来の喪失への今日です。
- 解決策
- そもそも現在しかないのに、妄想したせいで欲が発生してるだけなので、今に集中せよ
- メソッド
- ACT
- 森田療法
- マインドフルネス
時間の喪失
命の喪失とほぼ同義なのですが、分けてみました。
現代の多くの人は、キリスト教由来?の直線的時間意識をもっています。過去から未来へと時間が流れていくという意識です。
多くの狩猟採集民は円環的な時間意識をもっていたと言われています。この円環的な時間意識というのは、輪廻転生というよりニーチェの永劫回帰の方が近いと思います。
輪廻転生では、死んだら生まれ変わり別の存在になると捉えるそうですが。ニーチェの永劫回帰は無意味な人生をまた全く同じようにやり直すというものです。
ニーチェの永劫回帰は、超人思想を解説するために作り出した仮説とされており、真理として説いているようではないみたいですが、元来の人間の時間感覚に近いものではないかとボクは考えています。
少し話しを戻します。
直線的な時間感覚、時間意識の中で生きていると、命の終わりはやがてやってきて、その時点ですべてが終わってしまう用に感じます。
しかし、本来の生命の仕組みをたどると理解できますが。正しい時間の捉え方は円環的なものです。
命の終わりは、個としての終わりでしかなく、世界の仕組みの一部である個体が消滅する事は世界の終焉ではありません。
個としての生命を重要視すればするほど、死への恐れは深くなります。
個が全の一部である事、梵我一如的な精神で生きる事と円環的な時間の捉え方は結びついています。
生命はつきて、やがてサイクルの中で別の生命になるだけの話。魂とかそういう話ではなく物質としてね。
命ってのは、ただの循環の一部なんです。つまり、時間も個体として小さく直線的に捉えるのではなく。円環的に捉えれば命尽きてもやがて別の形でこのサイクルに加わるだけ。
円もめちゃんこ拡大すれば直線ですからね。
科学的に生命を持たない物質に成る事に恐怖を感じるのは、個を重要視しすぎるがゆえの事で、ソレ故に直線的な時間の捉え方になり、死が迫ってくるという感覚に怯える事になる。
ただの循環であるという事実を受け入れることができれば、円環的な時間の捉え方が出来るのではないでしょうか。
- 解決策:科学でも東洋思想(梵我一如)でもいいから、自分の命が世界のサイクルの一部であると納得できるだけの知識を得る。
まとめ
- 命の喪失は失えば、そもそも喪失した事への恐れは消えるので気にする必要なし
- 命に対してミニマリスト精神
- 所有喪失への恐れ
- 生きてる間限定だと思って精一杯楽しんどけ
- 未来喪失への恐れ
- そもそも「未来」なんて無い。時間は今しかない
- 余計な欲を捨てて「今」を生きていれば、未来への恐れは消える
- 時間喪失の恐れ
- 個体としてのエゴを捨てて、人間なんて所詮原子の塊であるという事実を受け入れる
連日、死についての投稿をしてるけど、これは自分の思考の整理のため。
死は乗り越えられるのか。死の恐怖はやはり大きいから、簡単な事でないです。
どんな感情も 「受け入れられるかどうか」 にかかってるわけですが
死については「命を失った状態」という最高にわからないものがあるからこそ、受け入れるのが難しい。
そして世間には「死の悲しみ」を助長するメディアの多いこと多い事多いこと
ソレ故に「死に対する価値観」を自分の中で納得いく形にするのは相当困難でもあります。
ただ、難しい事をしなければいけないという事ではない。
死の恐怖もまた「ただの感情」にすぎない。死が目の前に迫れば迫るほど、いつかそれを受容しなければいけなくなるわけですが。
それが「諦め」によるものになるか、「納得」の上でのものになるかは、哲学する事で大きく変わってくると思うのです。