井上です。
今回は楽観的ニヒリズムと、無敵の人について。
楽観的ニヒリズムを身に着けて、「良い無敵の人」になれば、最強だよねーって話。
楽観的ニヒリズムと「良い無敵の人」の関係性
先にまとめますと。
楽観的ニヒリズムってのはいい意味で「人生に対して抗う事を放棄」した状態です。
「どうせ人間いつか死ぬんだから、人の目や、未来の心配とか面倒な事考えずに、好きなようにやるか」って感じ。
細かいシガラミにしばられてないから、最強です。ニーチェの言う超人ですね。
これって昨今話題の「無敵の人」の定義に似てるなぁと感じたんです。
無敵の人は悪い意味で使われてますけど。
いい意味で捉えれば、この状態ってまさに「失敗を恐れないアウトプットの怪物状態」じゃないかなって。
無敵の人とは
まず無敵の人ってなんぞ?って人のために無敵の人について説明します。
無敵の人ってのはネット発祥の言葉で、「失うものが無い人」の事ですね。元はたしか「2ch創設者のひろゆきさん」の言葉だったと思います。
ひろゆきさんは、数年前に「今後無敵の人が増えてくる」という発言してましたね。まさにそうなったというか、ひろゆきさんの予測より時代の方が早い感じです。
無敵の人の発生を防ぐためには人間同士や地域的なつながりが大切ではないかと議論されています。
安っぽい犯罪ドラマじゃないですが「おふくろさんが泣いてるぞ」効果みたいなもので、つながりのある人から自分へ向けられる視線や評価が下がるのを避けたがるのは人間の心理。
社会的欲求や承認欲求あたりの欲望で、これを失う事を通常の人間は恐れます。
ただ、無敵の人にはこういう、「自分へ評価を与えてくれている人」がいないんですね。つまり、社会的な繋がりが非常に希薄だということです。
悪い意味で人の目を気にしなくなった人、それが「無敵の人」です。
ニヒリズムとは
では次にニヒリズム。
ニヒリズムってのは虚無主義の事。言葉にするとおどろおどろしいですね。
「あらゆるものに対して、客観的な価値を認めない思想」で、この状態の人をニヒリストと言います。
ニヒリストとしては哲学者のニーチェが有名です。
楽観的ニヒリズムと悲観的ニヒリズム
ニヒリズムには、楽観的ニヒリズムと悲観的ニヒリズムの二種類があります。(積極的ニヒリズム、消極的ニヒリズムなんて言ったりしますが、当ブログでは言葉として捉えやすいと思うので、「楽観的と悲観的」を使います。)
創作物に、ニヒリストや、悟りといった人間性とモチーフにして「すべて無駄」といった主張をするキャラクターが登場する事がありますが、これはどちらかと言えば悲観的ニヒリズムですね。ペシミズム(悲壮主義)に近い価値観だと思います。
ニーチェが推していたのは「楽観的ニヒリズム」の方です。
「世の中どうしょうもないもんばっかだから、好きにやるぜ」って感じ。
楽観的と悲観的の違いは。
「世の中のすべては無意味」ってのを認めた上でどうするか…ってところで。
- 楽観的ニヒリズムは「細かい事気にせず好きに生きよう」
- 悲観的ニヒリズムは「何をやっても無駄。人生にも世界にも価値なんてものはない」
って感じ。
ニーチェの「超人」
先程も書きましたが、ニーチェは楽観的ニヒリズムを主張してます。
楽観的ニヒリズムを貫ける人をニーチェは「超人」と称しています。
超人の定義は楽観的ニヒリズムをそのまま当てはめたものですが
超人とは…永劫回帰(ただただ繰り返し)の世の中で、他人の評価や将来への不安、今何かを失う恐怖などなどに怯えず、自分が思うように生きる者
※いぬおの意訳
ボクの意訳ですが、これが超人です。
いつか死ぬんだから好きなようにやる(常識の範囲内で)
超人と無敵の人ってちょっと似てますよね。
どうせいつか死ぬんだから(人生や世の中ってのは無価値だから)、いい意味で「他人の目を気にせず、好きなように生きる人」って強いなぁと思ったんですよね。
それを成し遂げるには楽観的ニヒリズム思想は重要な役割を担ってる気がするんです。
好きなようにやるって言っても、他人に被害を与えるような事はもちろんダメ。
だけど、他人の目を気にして苦しい思いをするくらいなら、楽観的ニヒリズムとか超人を自分のメンタル目標にして進むのってアリじゃないですか?
それは悪く捉えれば無敵の人に近いものになってしまうけど、他人の目を気にしてやりたい事が出来ない人より
人前でロケットぶっ飛ばして失敗しまくっても続けて成功させたホリエモンみたいに、恥かこうが他人に何言われようが自分のやりたいこと貫ける姿勢ってカッコいいと思うんですよね。
世間一般の「幸せ条件」に縛られない事
超人のように好きなように生きろと言われても、具体的にどうすれば?ってのはあると思うんですが、
超人になる方法をこの記事でまとめてるとまた分量が多くなりそうだったので、一つだけ。
結局最強の人間の条件は「メンタルが強いこと」だと思います。
強いという表現が適切ではないですかね、スルー力というか…。
ニーバーの祈りのように「変えられないものは受け入れる」この考え方は、人生の生き辛さをぶっ壊してくれます。
この力は、マインドフルネスや心理療法ACTの脱フュージョンなどでも身につける事ができますし、日本発祥の心理療法である「森田療法」もほぼ同じスタンスを取っています。
感情や、変えられないものはスルー(受け入れて)しまって、出来ることだけに集中。
これができれば、いわゆる俗物的な幸せの価値観なんてくそくらえで生きていけるはず。
- 結婚しなきゃ…幸せじゃないとか
- 子供がいなきゃ幸せじゃない…とか
- 友達がいなきゃ、親友がいなきゃ…とか
- お金がなきゃとか
- 才能がなきゃとか
- 裕福な家庭に生まれていなきゃ…とかとか
世の中にゴロゴロある幸せの定義に縛られてるとキリがないし。
こういうものに縛られて、「自分の不幸」を主張している人は、アドラー的に言うと、「目的論」に照らし合わせれば「幸せでない」という定義を作り出す事によって「変えられる部分までも放棄…つまり怠惰でいたい」という欲望を叶えているのかもしれませんね。
幸せなんて本人がそう思ってれば幸せなんですから。他人の価値観で生きるのをやめて好きにいきればいいんです。
あとは生きたいように生きるだけ。
あとは…自由に生きてればいいだけなんですけど。
一個だけ問題が出てきましたね。
やりたい事がない問題
これも、今回書いてると長くなりそうなので、軽くまとめてみましょう。
- 条件を撤去して考える(お金や、人脈、才能など)
- 特に「儲かるかどうか」を思考に入れない
- 超正常刺激的な価値観で考えない。
- SNSやゲームが楽しいのは→過剰な刺激であって「好き」とイコールかどうか、注意が必要。
- 大量のインプットをする
- 実際にやってみる。
こんな感じですかね。
条件を前提に考えると「やらない言い訳」なんていくらでも出てきます。
「儲かるか」ってのも条件ですが、これも考えてるとみんなYouTubeしかやらなくなります。でもこういう考え方は「好き」と「お金稼ぎ」がごっちゃになってしまうのでご注意。
超正常刺激、これは何度かブログで書いてますが、本来世の中に無いもの、ジャンクフードやSNSなどの過剰な刺激をもたらすものですね。これは「好き」とごっちゃになることがあるので注意。
もちろんゲーム好きならゲームを使ってなにかすればいいけど、本当に「好き」なのか、安易なドーパミン反応をもとめてる中毒状態、依存状態ではないかを気をつけて観察する必要があります。
後は大量にインプット。知らない事は好きかどうかわかりませんからね。
最後は実際にやってみる。これもやってみないと面白いかどうか、続けられるかどうかわかりませんからね。
まとめ
- 楽観的ニヒリズムを身に着けて
- 他人の価値観に縛られず「超人」的に生きよう
って話でした。
書いてて思いましたけど、やっぱり人間の行動を縛ってる最大の的は承認欲求、というか人の目を気にする感情な気がしますね。