死にかけています。ので。
なんで「死」が怖いのか、そんな話
死の恐怖を乗り越えるためには、受け入れる必要がある
死が怖い理由の前に
「怖い」含め、あらゆる感情は受け入れる事によってその感情から発生する不快感から自分を分離させることが出来る。
デタッチド・マインドフルネス ってやつですね。
これについては心理療法ACTが詳しいので以下の記事をどうぞ。
昨今自分の中ではやってる「ヤバイ集中力」にもデタッチドマインドフルネスに記されたところがあるので、是非。
怖いという状態から抜け出したいという事が目的でこのページを開いた人は上記の記事と、書籍を読んで、デタッチドマインドフルネスやACTを学べばほぼほぼ解決するかと思いますので、是非どうぞ。
死が怖い理由:わからないから
では怖い理由。 死が怖い理由の一つは
わからないから。
わからないものは怖い…というより、
わからないものは、受け入れられないんですね。だから怖い、不快感を感じる。
受け入れられないものは怖い…拒絶の対象となる。
つまり、わからない= 受け入れられない という図式を壊す必要がある。
そこで使えるのが前述したデタッチドマインドフルネスなわけですが。
多くの人がこのわからないものを受け入れるためにしてしまう努力の方向性として
「理解しようと頑張る」という選択肢をとってしまうわけです。
ボクもその傾向がありますし、現実的な問題に対しての対処としては正しいのですが。
死については別。
あのソクラテスも
死なんて誰も知りもしないものを怖がるなんておかしな話よね。わからんものは怖がりすぎる必要もないし、怖がらないという事もできないよねぇ~。※意訳
って言葉を自身の死刑の前に残してます。
死はそもそも、理解不能です。
「死を体験する」というのは厳密には不可能です。
死を体験した時点で、その体験を記憶することができないわけなので、不可能って事で。
臨死体験ってのがありますが、ボクはあれは脳が見せている幻、というか夢と同じようなものだと捉えているので
死を体験し、後世に記すなんて事は誰にもできないと思うんですね。
つまり
「死を知る事はできない」 わけですな。
だから理解することによって、恐怖を乗り越える事はできない。
哲学のちからで死を知る事は出来るのか。
この世には哲学という学問というか思考マニアの残した遺物があるわけですが。
これも結局、死を言語によって定義しているだけなので、体験として死そのものの状態を明確に記しているわけではなありません。
哲学を通して、自分なりに死を理解する事は可能だと思います。
ですが、それは真実というわけではなく、あくまでも自分が腑に落ちる捉え方をする事ができる。というだけの話。
死そのものを明確に知る事、理解することは不可能。
とはいえ、自分の腑に落ちる形で死を、ある意味納得する事は可能なわけです。
哲学者であろうが、スピリチュアルであろうが、宗教であろうが、自分なりに死を受け入れるための土台にできるなら
思想はは個人の自由として認められているわけですから、それが可能なのであれば利用して然るべきだとボクは思います。
ただ、真実であるというエビデンスはどこにもないという事は揺るがないので、科学的に死を確実なものとして捉えることは生きている以上不可能なんでしょうね。
死をどう捉えるか
人はいつか死ぬわけで。
それは受け入れるしかないわけです。
これも、他人が100歳まで生きるとか、世間が人生100年時代だと言ってるからと「100年生きる」という価値観を自分が持ってしまう事によって、それより早く死ぬ事で発生する、命の喪失への恐れが大きくなってしまうわけです。
何かを定義した時点で、その価値観に縛られて生きる事になってしまうという事は、このブログでよく書いてきたお金の話のみならず、人生観、死生観も同じ。
自分の人生は、生まれてから死ぬまでの一生でしかない。
その期間が、5年だろうと10年だろうと、30年だろうと100年だろうと、「長さ」にはなんの意味もないと思うのです。
客観的に、相対比較して短かろうが長かろうが、それがその人の一生であり、それは変えられない事実として存在するもの。
100歳生きれば偉いわけでもなんでもない。
ただ、目の前に訪れた死を、「あぁここで終わりか。まぁそれでもいいか。それなりに楽しめた」と受け入れる事が出来る人になる事が。
100年生きる事より重要だと。そんな事を思ったのでした。