お金も名誉(承認)もすべて虚構であって、
自分がソレを信じ切っていられるかどうかの、感情的価値観でしかないように思えてきた。
お金については最低限必要だけど
もちろん。お金については最低限、生活するだけの金額は必要になるんだけど
それを超えてしまうと
お金というのは麻薬的に増やすことを楽しむ事が出来るならまだしも
この辺境ブログにたどり着くようなセミリタイア思考の人や、足るを知る的な東洋、またはヘレニズム哲学的思想を求めている人にとって、お金はそういった役割を果たしてくれない。
つまりは、ただの生活の糧でしかない。
その生活の糧としての必要最低限を作るだけのシステムも体系化されていて、それを発信するYoutuberがゴロゴロいるわけで、その仕組を理解する事も容易。
過去の記事にも書いたことだけど、これは至極単純で、中学生くらいからなら十分理解できる事だったりする。
結局、その必要最低限を作る or 作るだけのシステムの自動化と一定額の収入の維持を確保してしまえば
お金は生活の糧にしかならず、生きるための糧にはなってくれない
承認は言わずもがな
承認は言わずもがな。
サンドウィッチマンでさえ、嫌いな人はいるだろう
承認は言い得て妙で、諸刃の剣でもある。
得れば得るほど、矛先を向けられる機会も増える。
これは精神衛生上よくない。
だから程々が良い。
これを必要以上に求めるのもまた麻薬のようなものだと思う。
エピクロスの言葉を借りるなら「隠れて生きよ」という事だ。承認も、ほどほどが良い。
虚構の中でどう生きるのか
虚構の中でどう生きれば良いのか。
虚構を虚構とわかりきった上で、信じ切って生きるのもまた一興。
虚構と知らずに信じ切るのもまた一興だろう。
ニーチェの言う所の超人として生きるには、自ら、価値の存在しない空虚なこの世界に、自らが信じるその価値を定義しなければならない。
死に対する宗教の効用
僕たち日本人で生まれ変わりを心底信じてる人は多くはないと思う。
僕も信じていないし、インド哲学的な思想が根強い仏教の価値観を割と生きるための哲学として、指針にしている僕にとっては、生まれ変わり、つまり輪廻転生は仏教の言う通り、苦痛だと思う。
だから生まれ変わりは、存在するかしないかを証明する事はできないが、とにかく信じたくない。
しかし、この生まれ変わりを信じる事によって救われる場合もある。
- 死ぬ寸前、次の人生を本気で信じられる人
- あぁ、もう終わりなんだな。俺の人生なんだったんだろうな。死ぬのは怖いなとおもって 死ぬ人
どちらが幸せだろう。
死後の事実は事実として、証明しようがない。僕らにはまだその術がないという点が一つと、そもそも存在しない場合それを証明する事は不可能だからだ。
しかし、存在しようがしまいが、死ぬ瞬間にその人がどう感じるかどうかは、大きな違いがある。
言うならば
- 希望に満ちて死ぬか
- 絶望の中で死ぬか
の違いだ。
僕たちの現代社会は「科学的であれ」という風土に染まってしまったわけだが
それによって失ったものも少なくはないのだろう。
宗教は信じてないが
僕自身、宗教を信じているわけではないし、生まれ変わりなどの形而上学的な事については
仏陀もそうしたという「無記(オカルト的な事はわからんから語らない)」という事であったり
ウィトゲンシュタインのいう「おおよそ語り得ぬものについては…」というやつで
わからんのである。
これをわかると豪語して、金を稼ぐ、所謂スピリチュアル商法な人たちは沢山して、先日Audibleを見ていると そういったあやしげなタイトルの本をいくつかを見つけてしまったわけだが
そんなものわかりようがないのだ。
もちろん、僕の知識を超えた感覚知を持ち合わせた人間による書籍なのかもしれないので、完全なる批判はできないわけだけど
僕は形而上学的な物事について断定する術を持ち合わせていないので、多くの哲学者達同様、何も語れない。
しかし、信じるかどうかは個人の自由だと思う。
結局は、それを信じることによって、その人が幸せであるかどうか なのだから。
まとめ
金も名誉も虚構であり、宗教は虚構かもしれないがその価値を享受する事は十二分にできるのだろうという話。
ニーチェの言うところの、超人になりたいのであれば、正しさに縛られず、本当に信じるものを信じるだけの気概は必要なのだろう。
僕にとって、その虚構の中で何を求めるかといえば、精神的平静であったり、笑いとか、人や動物との小さな繋がりだったりするわけだけど
それが人によっては、宗教のような超自然的な事物とのつながりかもしれないし、お金や承認なのかもしれない。
何を信じるにせよ…重要な事は、そもそも、絶対的な価値など存在しないのだから、いつかはそれに対して空虚な感情を抱く事もありうるのだという事を、忘れてはならないという事くらい。
後は、それに気づく前に運良く死ねればバンバンザイだろうという事くらいだろうか。
金の無意味さに気づく前に、金に溺れたまま死ねれば空虚にならずにすむし、承認も同じ。
そういうこと。
金や承認のような、万人共通であろうと思われる欲を、人生の価値観としている時、確実に自分は自分の価値観を定義するという力を行使していないので
これらのような単純な価値観によって支配された人生を、改め直すというのは、簡単な事ではない。
だからこそ、人生の早い段階から哲学は必要なのだと、僕は思う。
すべての事物に対して、先人の智慧を借りつつ、自分で考える事の重要性を、今一度。

- 作者:立川 武蔵
- 発売日: 1992/11/17
- メディア: 新書