最近、のテーマの一つとして、科学論文で示された幸福論はどこまで信じれば良いのか。また、それを信じた所でそれは自分の人生を幸福に生きていることになるのか。という趣旨のものがあって。
最後の二冊はそれを学ぶ上で有用そう…というか
科学の統計分析による帰納法分析の限界(蓋然性を超えて必然性にはならない)という事が僕の一番の最新科学論文(笑)への批判的姿勢だったんだけど
そもそも再現性すらないとなると、蓋然性すら怪しくなるわけで、この本は読んで置きたいなと思う。
しかし、最近は体調がすぐれない上に、一銭にもならない。
その上、僕の幸福論は、哲学を学び自ら哲学し、マインドフルに生きるという事で確立してしまったので、最新科学信仰を否定したところでなんの足しにもならない。残念ながら。
僕にはもう幸福に対する最新科学は必要ない。
それに、こういった最新幸福の科学(特定の団体の事ではない)を信じる人が目を覚まそうが盲目的にインフルエンサーにお金を払おうが、どちらにしても経済は回るから良しとして考えるしかない。
結局、何度も言ってる通り、個人的にプラスかどうかという事が問題なので
- インフルエンサーを信仰する事で幸福を感じられるならそれもよし
という事になる。もとより、他人の事なので、その人がそれでいいと思うなら良いわけだからね。
何より、僕自身も僕の興味という範囲の中で、可処分時間の範囲内で、学びたいものを取捨選択せざるを得ないので
「他人の目を覚まさせるため」なんていう ありがた迷惑的な思想で学びを深めていこうとは思ってないわけで。
こういった科学の危うさに対して、理解したいという欲求が、自分の知的好奇心を満たしてくれるのはいい事ではあるものの
それなら、千鳥TVでも見ながら漫画を描いてる方が、まだ良かったりするわけで。(マルチタスクはあまりよくないが)
幸福とは
結局「何にすがるか」という事でもある
哲学し、瞑想をする事で幸福感を維持するという僕の答えは
人によっては正しくないかもしれないけど
瞑想によるフラットな思考こそ、平穏であり、それが幸福と同義だと僕は考えていて、ベースは西洋哲学、東洋哲学のどちらにもあるものだし、自分自身正しいと感じてる。
昨今の心理療法でも、受容の精神の重要性が推されているのも、この理論展開を正当化させると考えてるし、問題解決や獲得による幸福を狙うより万人に適用できる至極真っ当な幸福論だと思える。
しかし、これは僕の哲学であって、僕がこれにすがっているだけだ。これについて他人にどう思われるかどうかはどうでもいい。
その点でいえば、
インフルエンサーにすがるのもまた、一つの幸福なのかもしれない。
それが無知故に引き起こされているものだとしても、人間はそうやって虚構を信じていきたきた生き物だから
その方がむしろ、自然なのかもしれないし
他人がとやかく言う事でもないだろうと。思う。
考えない事による無知の毒
しかし、哲学者ソクラテスは、人間のアレテー(本質的な役割)は知であると説き、仏教には貪瞋痴の三毒と呼ばれるものがあり、痴とは(無知)を指す。
これは頭が悪いという意味ではない。
考えない事。知ろうとしない事だ。
「この人の言葉を信じていれば」というのは無知と同義だと僕は思う。
おわりに
とはいえ他人の事なので、深入りすべきではないのだろう。
アドラーが言ったとおり、他人の問題は他人の問題。
他人が無知である事もまた受容の精神をもって受けいれていればいい。
所詮世の中に隔たりなどないのだから、それもまた自分がみている世界の表層の一部であり、それをどう感じるかも含めて、自分の考えた結果でしかない。
物質的に考えるなら、お金が回って、そのお金で世界がうまく回るのだから、誰が何にすがっているかなんて関係がない。
そんなものに首を突っ込んで「新しい神の代用品」(ツァラトゥストラ)を定義しようとすればニーチェのように最後は頭を狂わせるかもしれない。
オンラインサロンに信仰を見出している人は、そのままでいいと受け入れるしかないのだ。
これを変えようとすることもまた、非受容的な人生であり、よくよく考えると僕の幸福論とは逆行した行動となる。
別に、「存在しない価値」を信仰した人間が、熱狂してそれらにお金を払うなんてのは、今に始まったことではないしね。とやかく言う事でもない。

- 作者:ダヴィッド・ヴァンデルムーレン,ダニエル・カザナヴ
- 発売日: 2020/11/06
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