残り課題は、死ぬくらいだ。
ってことだったので、死の恐怖ってどうやって克服すればいいんだろう?
と心理療法や心の問題解決へと立ち返り
結果、瞑想の時間を増やし数日。
この記事は執筆と公開にラグがあることをご留意いただきたいのだけど
とりあえず
悟らなくてよし。という結論に至った。
そもそも瞑想で悟れるのか
ブッダの時代からそうだが、瞑想修行を行っても多くの人は悟れない。
ブッダ自身も、瞑想の免許皆伝みたいな、ランク付けみたいなもので高得点をもらったが悟れなかったので、ここで瞑想してても駄目だなぁってあちこちフラフラし、
苦行(当時主流であったため)も行ったが、ボロ雑巾みたいになっても駄目
結果的には、ボロボロ担ったあと、ダラーリと菩提樹の下にゆったり穏やかに座って悟りをひらいた。
なんて逸話があるが。
修行すれば悟れるわけではない。
所詮「気づき」だ
ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)は、所詮「現在への気づき」でしかない。
マハシ式ではこれを言葉のラベリングで行い、ゴエンカ式やプラユキ氏らが指導しているタイプの気づきの瞑想は言語を用いず感覚を重視する
どちらにせよ、最終的には感覚というか、現在の目の前の何かしらに意識を向けることであり
本質は、座る事でもないし、呼吸をする事でもない。
気づいているかどうか。
でしかない。
これが常に、無意識的にフル回転状態で現在にとどまり続けることができれば悟りなのだろうと思うのだけれど
その状態であるかどうかと
死が怖くないかどうかは、おそらく関係がない。
死が怖いと気づいていれば良い。
感情は、所詮妄想でしかない。
すべては「空」とはそういう事で
連続的な何かではなく、一瞬一瞬のものがただ、人間の知覚として連続化してるように感じるだけだ。
哲学的な問答でもよく出てくることだが、我々の世界の物理法則は、我々の知覚によって、そうであると定義づけられているだけに過ぎず
それこそ、量子の世界の話になれば、原子より小さい単位であるだけで、我々を構成している要素のソレである事に違いは無いにも関わらず、二重スリット実験のように人智を超えた変化を示す。
我々は我々の知覚の範囲で、ソレをソレと認識する事しかできず
その認識がそう感じさせているだけに過ぎない。
こういった、よくわからない事実について、仏教では「空」と定義し処理をする。
便利な言葉を作ったもんだなと思うが。
つまりは感情もソレでしかない。
悟りは感情処理の速さの違いだろう。
悟れば怖くなくなるのではないか?
と数日前の僕は思っていたけど、どうやらこれは違う。
悟りに至ったとしても、怖いという事実により俊敏に気づき、それに反応しないだけだ。
それが一瞬であるか、数秒かかるか、場合によっては数日かかるか、 その違いにすぎない。
僕らはあらゆる物事に対して、感情的な問題が起こった時、それを処理するのに、問題の大きさによるが数時間から数日を用する。
心理療法の世界でいう「脱同一化」は時間の経過によって自然に起こるのだろう。
しかし、これは仏教の技術(ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス))を使う事であったり、脱同一化を行うための心理療法(ACTやマインドフルネスストレス低減法、メタ認知療法etc)を利用する事によって短縮できる。
これがいわゆるマインドフルネスレベルってやつでMAASで自己判断で計測する事ができる。
このマインドフルネスレベルの最上位が、世間的に存在するかしないかまことしやかにあれこれ言わてるいわゆる「悟り」であって、ソレ以上でもソレ以下でもない。
悟っても怖いものは怖いが、客観視が早くできるため振り回されないだけ
つまるところ
悟っても怖いものは怖い。
しかし
客観視/脱同一化が瞑想修行による早くなっているため、怖いという感情による行動の抑圧を受ける時間が、短い。
という事なんじゃなかろうか。
怖いものは怖い。
ただ、怖いという事を客観的に捉える事ができる。
というだけだ。
つまり。
怖くても良い。怖いものは、怖くて当然だ。
しかし、間違ってはいけないのはこれは、受け入れられるのが早いという事であり、怖い=受け入れられないという事ではない。
ソクラテスやセネカの死の瞬間のように自らその死を受け入れるような、
そんなものは死の存在を前にしては不可能だろうと思っていたけれど
それが逃れられない運命ならば受け入れるしかなく
ソクラテスの場合は、逃れられたが、芯の無い人としてただ知りもしない死を妄信的に怖がる理由もよくわかんないしねーと毒杯を煽ったわけで
客観的に感情への対処ができるかできないかは、行動の制御にとって重要で
ぼくらはその感情の制御ができず、多くの今の時間を失っている。
死を前にしてもそれは同じだ。
あと一ヶ月で死んでしまいますよと言われた時、一ヶ月死の恐怖に襲われながらうずくまって布団の中で過ごすなんてもったいないだろう。
「あ、そうすか」
と割り切って、一日一日を自分にとって価値のあるものにしていくだけ。ただそれだけの事しかできない。
それは死が遠いものであろうが、近いものであろうが同じことだということも忘れてはいけないと改めて思う。
まとめ
- 悟っても死は怖いだろう
- マインドフルネスレベルが高くなれば脱同一化により感情による抑圧のスパンが短くなる
- よって日々の生活を、感情に振り回されず目的本位で行える
- そのスパンの長さの単位がより限りなく小さいものが「悟り」なんじゃないか
みたいなそんな話。
理想としては、一瞬の脱同一化が理想だけど。
それが瞑想修行でたどり着けるものかどうかはわからないし。まぁ、日々コツコツマインドフルネスに生きて
いざって時にできるだけ早く脱同一化をして、日々を大事に生き続けられるようなメンタリティを養っておけばそれでよしって事か。