隠れて生きよ ~いのいぬ.com~

漫画描きが、漫画や絵の事、作品レビュー、セミリタイアなどについて書くブログ

執着を手放すには「諦観」と「死」しか無いのではないか

執着が苦痛の根本にあるなってのはまぁ納得できてきた。

そのためのメタ認知的自問で自分の執着はなんだろう?と考える事で見えてくるものもあった。

しかし、そもそも終着点がどこなのかわからないのでそれについて。

執着を解決するには諦観と死しかない

執着による苦痛を解決する策として、現時点の答えとして出てるのは「諦観」と「死」の2つ。

諦観=受容 について

諦観ってのは「明らかに見る、諦める」って事で、ネガティブワードにも見えるけど、まぁそのまま見るって事で受容の精神と言い換える方が妥当かもしれない。

昨今巷でもあれこれ話題にされてるマインドフルネスは、まさにこれを鍛えましょうって話し。

ストア哲学やニーバーの祈りにも代表される思想で、物事をあるがままに受け入れて、自分ができる目の前の事に集中して生きましょうというやつ。

諸行無常、すべては移り変わるものだから、あれこれ頭で妄想してないで、今を一生懸命生きましょうって事で

もっとも最近この話題がドカンを広まったのはジョブズのスピーチだろうが、2000年異常前にエピクテトスやブッダらがそれをしれっと説いてるのは、なんともウケるというか。

人間、誰かになんと言われたから悟れるわけではないというのは、禅の教えとして残ってるけど、自ら実践し、身につけるしか無いんでしょうね。

知識を得てなんとかしようとする自分の行動も自省して、淡々と眼の前の事に集中する事こそ精神修行だと理解しないとなぁ。

瞑想したり、道元が説いた通り、日々の行動、作務を修行として、注意散漫ながら作業ばっかやってちゃ駄目って事か。

死について

これも一つの解決と取る事ができる。

死が怖い理由は、生と生によってもたらされる体験等々の喪失であるわけだけど

人によっては「死を持って解決」という手順を踏む人もいる

現代ではこれは精神疾患とされているわけで適当なことは言えないけど、一つの解決だと思う。

ただ、

浜までは 海女も蓑着る 時雨かなー滝瓢水

江戸中期の俳人の俳句らしいが、要は濡れる仕事をしているからと、雨が降ってるから濡れてしまえというわけではいかんよなぁみたいな意味が込められてるんじゃないかとされてるらしい。

死にたとえてみるならば、「どうせ死ぬのなら…」と雑に生きるのではなく、死ぬその時まで命を大事にいきましょねーって事かと。

死はたしかに苦痛からの脱却ではあるが、苦痛からの回避への執着心による短慮な行動とも言えるわけで(精神疾患の場合はそれが病によってもたらされるわけではあるが)

これを「良し」とはやはり言い難い。

最期まで生きる。

死そのものは、僕自身怖くないとは言い切れない。

しかし、死ねば全ての苦痛からは解放されると思えば、それこそ今をマインドフルに生きる事へもつながるし、死ぬ瞬間まで生ききり、そして解放されたと思って死ねると考えれば

それはそれで、生のいいところ、死のいいところ、どっちも美味しく頂戴できるのかもしれない。

なんか若干いい感じの結論だしてないか。わからんけど。

まとめ

執着ってのはどういう視点をもってそれが発生してるかとく解いていく過程で

やはり個人個人の見解の違いがあるとは思う。

一本道ではないのだろう。(なんかこんな名前のアダルトサイトあったよね)

執着について考える時、認知のゆがみに陥っていないかという現代心理療法の知識を利用するのも大事な事だと思うので、

実践こそ至高ではあるけども、知識もフル活動させながら、生きていきたいすな。

いやな気分よ、さようなら コンパクト版

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