隠れて生きよ ~いのいぬ.com~

漫画描きが、漫画や絵の事、作品レビュー、セミリタイアなどについて書くブログ

怖いのは「死ぬこと」か「死ぬまでの時間を耐える事」かどっちなんだろう

あやふやにしてはいたが、死とは何かという事について改めて追求し直さなければいけないと感じてる。

「死」も無常という過程の一つにすぎない

大前提として、諸行無常は絶対的でこれには揺るぎない。

物質が常に状態を維持する事は不可能で、地球はもちろん、太陽ですらいつか消滅するこれらの原理原則は、物理法則としても正しいとされているし

現時点で人間が観測でき、なおかつ実感として体感できる原子レベルの物理法則としては揺るぎないものだと思う。

量子論的な観点を持ち込んでくるとわけがわからなくなるところだけど、理解したところで、それを人間という存在に適応する事で死を回避または、命を無限に紡ぐ、またはそれによって社会を維持できるのかという問題に直面する事になるので、余計事がややこしくなるし。

という事で。とりあえず

今回は「死」は生命という無常の産物がもたらす必然である事が揺るぎないという事にしておきたい。

怖いのは「死ぬ事」それとも「死を待つ時間」なのか

ここで、問題として

怖いのは

  • 死ぬこと
  • 死を待つ時間

どちらなのだろうという事にある。

僕は死ぬことそのものはあまり、怖くないと感じている。

その理由は、自分自身の死は認知する事ができないという前提があるからだ。

死とは、存在の消滅であり、存在が消滅すれば、その存在は認知能力を失うであろうというのが物理的な観点から生命を捉えた時の考え方だと思う。

死をもってしても、認知能力をもっているなら、それは「まだ」生きていると言い換えられるし、その時点で死んでいない事になる。

エピクロスが言ったとおり、自身の死は、自分の人生に存在しない。

故に、死そのものは怖くない。

しかし、

死ぬに至る過程は恐ろしいし耐え難いものなのではないかと感じていて、それを乗り越えるための術は、受容するスキルを育てる以外に無いと考えてる。

僕らは基本的に、生まれた時点でいつかくる「死」への道を歩んでるわけだけど

そんな事をいちいち毎日毎日、毎時間、毎分考えながら生きていては、何もすることができない。

だから、実質、忘れているのと同じだ。

時々そんな物思いにふける程度のものであって、実際に「後10日で死ぬよ」なんて事実を目の前にして生きている人は多くはない。実際、そうであったとしても、病で余命宣告を受けているのではない限り、自分がいつ死ぬのかという事実を知る術が無いからだ。

これを読んだ10日後、実際に突然死をしてしまったとしても、その人は今これを読んでいる瞬間「本気」で死ぬという事を考えているわけではない。

しかし

前述した通り、病で余命宣告をされる場合は別だ。

「いつか死ぬ」という事実の「いつか」がより身近で現実味を帯びてくる。

コレは怖い。

エリザベス・キューブラー・ロス博士の死の瞬間では、多くの死と直面した人達からの聞き取りによって、死を受容するまでの過程が記されているが

それを知った所でなんの意味ももたないのは、博士自身の死を追いかけたドキュメンタリーに記された通りだ。

つまり。僕が思うに、人間は「知ること」では死への恐怖を乗り越える事はできないのだろうと思う。

悟りとは何か

仏教哲学の話しになるが、経典はたしかに助けにはなるが、本質的に「それ」を理解するには修行を積むしか無い。というのが仏教の答えにある。

「それ」とは手放す事、Let go精神というか、受容の精神の事で、

これは、ニーバーの祈りであったり、ストア哲学の根本思想に代表される「変えられるものだけに意識を向けよ」という思想の事。

いわば、悟りとはこの受容の精神を養えるところまで養い、自分の感情に振り回されない不用意に反応しない心を育てた人間のみが達する事ができる所だと思われる。

それを育ててしまえば、実質死を受け入れる事も不可能ではないのだろうと思うのだけど。

そのために必要な修行とは。一体何か。

瞑想をする必要があるわけではない。もちろん落ち着いた場所で短時間のソレが行えるならそれも良いとは思うけど、これは日々の生活の中で常に自分の心を俯瞰しておけるかどうかが肝になるのだと思う。

以前書いたが、「なにもない場所でいくら修行を積んでも、なにかが起こった時には反応できない」だろうし、常日頃からその精神修行を怠らない事が重要になってくる。

悟りなんて効くと胡散臭さがあるが

要は、どうにもならない事にいちいち反応しない事、現実的な事を淡々とやっていけ、というだけの話しだ。

死を前にして、「あーもうすぐ死ぬのだ、何をやっても意味がない」と布団にくるまっていては、それはそのまま終わるだけの人生だけど

その中でも、やっておきたかった事に手を付ければ、最期までやりきって生きることができる。

これはもちろん、どちらがいいというわけではない。

布団にくるまって死にたいなら、それもその人にとって重要な事ならばソレで良い。

おわる

何が書きたかったかわからなくなったけど

結局、死を受け入れるということが人間にとって最終課題であって、人生なんてソレ以上でもソレ以下でもないなと思う。

名誉や権力、金をもっていても、みんな死ぬ。当たり前のように死ぬ。

長い短いも大した差ではない

どんな人でも予想していなかった死の宣告は「もっと生きたかったという未来を不条理に奪うもの」だからだ。

「まだしばらく続く」と思っていたことが「もう終わりますよ」と言われれば、何歳だろうがショックだろう。

しかし、命は無常

常日頃から、死は必然であり、いつかかならずやってくると理解して、ただ目の前の事のみ淡々とこなし

その目の前の事を、自分なりに満足のいくように楽しんだり喜んだりして味わい尽くせていると感じるなら、それでいいんじゃないかと思えてきた。

何をどう取り繕ったとしても人間の人生なんて、死ぬまでただ淡々と目の前の事をこなしていく事しかできないわけで、それをどう捉えるかどうかも自分次第。

怯える事に命を浪費しないように生きていきたい。

夜と霧 新版

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