死について
もう残された課題もそう多くはない。
世界には、死を生に利用する風潮があるが、それでは死の存在を受容する事はできない。
そんな話。
死ぬ瞬間どんな人間でいたいか という妄想
- 死を前にした時 後悔する事はなんですか?
こんな質問を自分に課して、自分の人生の価値を決めて行くのは悪くはないと思う。
最近、ACTを学ぶ上で、自分の人生の価値というものの重要性(行動指針に与える影響)に気付かされてるわけだけど、
これは所詮、「生きるための知恵」であって、「死との対峙」ではない。
後悔しない生き方をするために、他人の後悔談義を聞いて自己の生き方を調整するのは、素晴らしい試みだとは思うが。
そもそも、自分の死の前に後悔できてる事が幸福なのだという事に、後悔している人達も、その話を聞いている人達も、気づいていない。
死はそれほど不条理なものだ。
死は不条理なものである
ハイデガーの言うような、死生観で「死を想え」なメメント・モリ精神をもって生きた所で
生きる上での課題が増えるだけであって死を乗り越える事にはならない。
そもそも、80歳90歳まで生きられる保証が存在しない。
死は生物にとって常に平等で絶対的なものだ。
メメント・モリは、本質的に、明日死ぬという事から目をそむけている。
ただ、生きるという事はそういう事であって、死と対峙することと生命を謳歌することは別の話だから、仕方がないとも言えるが。
生きることに執着し続ける限り、死の不安からは逃れられない。
死を前にして後悔しないように生きるべき指針を決めれば決めるほど、死ぬのが怖くなるのだ。
死の不安:ブッダがたどり着いたソリューション
なぜブッダが悟りを目指したのか。
本質的には本人にしかわからないことではあるけど、不可避な事象に対しては受容する他ないという事に気づいていたからだろうし、これは僕の敬愛するエピクテトスを始め多くの哲学者が説いている事。
死の不安は、ただ死ぬという事を受け入れ
人生に「死」という終わりがあるが、その終わりを生と死の以降の狭間の中でぼんやりとしか捉える事しかできず、本質的に死を認知することはできず、生を終えるという過程を踏む事しかできない。
という事は
不安になっても仕方がないという事の証明でもある。
僕らはわからないものは怖いのだから。
死を「わかる」事はできない。
自分の死は生物の認知の外にあるのだから。
まとめ
- 死と向き合わず人生を生きれば生きるほど死は怖くなる
- 死と向き合った所で受容以外の手立てはない
- 死を受容した時、「死ぬ前の後悔」とか「過去をくいるとか」そんなものに意味がない事がわかる
- 死の存在を理解し、過去、未来ではなく、今を生きる。事しかできない
そんな話。
時間的観念を以て、過去未来に意識を巡らせる事があるが
それは物質の変化の過程を時間という存在として紐付けているに過ぎず、そもそも時間なんて無いのだから
未来にどうだあーだ((死ぬ前に後悔だとかそういう話)と考えたところで、無意味といえば無意味。
死は常に理不尽だ。
だから今、この瞬間から受容するしかない。
死を理由にして生きてもうまくいかないし、死を理由に死ぬ事も、また無意味なのだろう。