隠れて生きよ ~いのいぬ.com~

漫画描きが、漫画や絵の事、作品レビュー、セミリタイアなどについて書くブログ

「人生どうでもよくなった」からがスタート

人生はどうでもよくなってからが難しい。

どうでもよくなってからが勝負だとも言える。

どうでもよくならないために「獲得する人生」はどん底の可能性

どうでもよくならないように「獲得する人生」を選ぶ人が大半だ。

お金、承認、人間関係、を充実させ外的要因で人生を埋め合わせて行こうとする。

しかし、最後の最後まですべて満たされて生きるのは困難。

そういったものはすべて、死の前では付け焼き刃にしかならない。

何十億稼いでいようが、死を前にしてその金の無意味さに、落胆するだろうし。

何千人の承認を得て、応援されていたとしても、応援で寿命が伸びるわけでもない。

周りに支えてくれる人がいようがいまいが、それもまた同じこと。

獲得したところで、いつか「どうでもよくなる日」はやってくる。突然死でもしない限りは。

突然死なら尚更。獲得したものなどなんの意味もない。

「どうでも良くなった」は出発点

僕は、どうでも良くなってからが出発点だと思っている。

僕らは消費社会、資本主義、物質主義、他人の作った幸福論の中で踊らされて生きていくよう教育をうける。

その結果、そのレールから外れた人達は自分を落伍者であるかのようにレッテルを貼るが

実はそうではない。

先の述べたとおり、獲得する人生こそが、落伍者なんだ。老病死という本当の課題から目を背けて生きているのだから。

「どうでもよくなった」とは、獲得する人生への「飽き」だ。

その瞬間、課題を見失う。だからどうでもよくなったという感情が、ニヒリズムへと繋がり、やがては自死へとつながるようなイメージが持たれているのだろう。

けど、実際はそうではない。

獲得する人生から一歩引けた事で、人生の指針がなんであるのかを見失っただけだ

なぜ指針を見失うのか

なぜ指針を見失うのか。

それは、誰も教えてくれないからだ。

「人生には普遍の課題(老病死+生)が存在し、それとどう向き合えばいいのか」という事を僕らは教育されない。

だから課題を見失い、「どうでもよくなった」となり、ニヒリズムに陥る。

これは仕方ないことだ。

哲学を軽視する物質主義、消費社会、資本主義社会の汚点であるし、哲学を重視してしまえば資本主義は回転力を弱めるのだから当然だ。

消費資本主義社会にとっては、みんな、目先の数字に狂っていた方がちょうどよい。

これは、資本主義が悪であるという事ではない。資本主義であるということは医療であったり、衛生の管理など人間が生きやすい社会を作っていく上で、都合が良い。つまり我々は資本主義は人間にとって物質的に生きやすいのは生きやすい社会なんだろう。

しかし、それは心とは別の話で。現代、心の課題が浮き彫りになっているのは当然といえば当然だ。

きれいな水が飲めるのは非常にすばらしい。それに悩む必要はないのだから。

それでも、水は僕らの心を癒やしてはくれない。

なぜなら、「なんのために生きているのか、本当の課題はなんなのか」その答えも進むべき道も、「きれいな水」は答えてくれないからだ。

「人生どうでも良くなった」なら、何をすれば良いのか

答えはいつもどおり

  • マインドフルネス療法
  • 認知行動療法

この二つ。

心の問題はこころへのアプローチでないと解けない。

ブッダが瞑想をしたのは、王宮暮らしで老病死の存在を知らなかったが、それを知って「生きることは苦である」と気づいたからだ。

マインドフルネス療法はそれに気づいたジョン・カバット・ジン博士らが作り上げたもので、エビデンスも豊富。

昨今マインドフルネスは記憶力がとか集中力がとか、副次効果をメインに取り扱ういい加減な指導者が増えてるが、そもそもそれは副次的なもの、結果でしかなく、そんなものはどうでもいい。というか、結果を求めてる時点でマインドフルネスは失敗するので、原典を漁る方がいい。

CBTも哲学的に自分にとって善い認知を自分に取り込むためのツールとして秀逸で、派生も多く存在する。

この二つ、及びその派生の心理療法に取り組み

生きるとは何か、の答えを見つければいい。

その答えは人それぞれ、言葉にすれば陳腐でしょうもないものになるが、その答えを持っているか持っていないか、考えるか考えないかでは

大違いなのだと、僕は思う。

マインドフルネスストレス低減法

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いやな気分よ、さようなら コンパクト版

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