「後悔しない」「効率のよい」「正しい」~ 生き方
そんなもん。無理。
後悔するかしないかは、未来の自分がどう考えるかでしかなく。
どんなに科学的に、どんなに道徳的に正しく生きたとしても
後悔する事はある。
例えば、
ゴリゴリの科学的な生き方をしたとして、年収も1兆2兆稼いで、友達にも家族にも恵まれて、健康もすこぶる健康で…と言った状況で
トロッコ問題のような状態に差し掛かった時、どちらを選んでも後悔をしない選択が出来たと、胸を張って言えるのなら
それは過度な信仰でしかない。
人間は何を選んでも、何かしらの後悔をしようと思えば可能。
その上で、片方の選択を受け入れる事で生きていく。
人間の人生は後悔と妥協と受容の繰り返しだ。
それを正しく生きていれば回避できると思っているなら、それは奢りだし、信仰だ。
信仰の対象は
- 自分自身や神などの超自然的存在、
- イデオロギー、
- オンラインサロン経営のYoutuberのような 他人かもしれない
なにを信仰していたとしても、その信仰が揺らげば、人は崩れる。
感情は揺らぐもの、信仰は崩れるもの
感情はゆらぎ、信仰は崩れるという前提で
それを受け入れる事が生きていくという事だと自覚すること。
強いて言えばそれが後悔しない生き方。にかろうじて近い生き方なんじゃないかと、僕は思う。
過去の偉人への信仰も揺らぐ
余談だが、過去の偉人への信仰ももちろん揺らぐ。
僕は「せめて信仰するなら、生きているより死んでる人を信仰した方が不祥事とか起こさないしええよな」
と思う事もあったけど、過去の偉人も掘り下げていけばバグった事やってるし、道徳的に現代の価値観に沿わない事をやってたりする。
それを「こうあるべきだ」と思う始めればヤバイし。
「こんなことしてたんだ…やべぇやつ、こいつの本よむのやーめた」も信仰は由来でないが、白黒思考で認知が歪んでる。
良い部分は取り入れ、悪い部分からは客観的に見て学ぶ。
そのくらいの距離感が取れず
「●●さんが言ってるんだから正しい!」ってなると、信仰してるという事。
それに気づけなくなったら、正しいもクソもない。
考える事を失ったら、それこそ正しく生きているとは程遠い。