NHKのサイト。
死にたい人、大切な人を失った人。そういう人の声を読む事が出来る。
メメント・モリ「死を想え」
人はいつか死ぬ。
しかし、死を実感するのは難しい。
ある実験では、他者の死はイメージできても、自分が死ぬという事に対しては人間の脳は思考停止のような状態に陥ってしまい現実的に想像できないのではないかという結論に至ったらしい。
僕自身、死については散々考えてきたし、ブログにも駄文をわんさか書きなぐってきたが、実際自分が死ぬという事を正しく想像出来ているのかどうかは怪しいところだ。
エピクロスの死生観

- 作者:エピクロス
- メディア: 文庫
エピクロスは死についてこんな考え方をしている
死は、自分が生きている時は、存在しない。しかし、自分が死ねば、死を知覚する事は出来ない。故に、死は自分の人生には存在しない ー意訳
他者の死は、自分の人生には「存在しない」のだ。
確かに、自分の死を知覚することは出来ない。
想像できないのも無理はない。自分はいないのだから、想像の中での知覚ですら、自分の存在しない世界の中を自分という存在が存在する想像をしているという矛盾が生じてしまう。
存在しないものが存在しない世界を見るという想像しかできないのだから、自分がいない世界を正しく想像することは不可能なのだ。
ペンギン・ハイウェイの死生観

- 作者:森見 登美彦
- 発売日: 2013/01/10
- メディア: Kindle版
森見登美彦さんの小説、ペンギン・ハイウェイの中で主人公の友人がこんな話をするシーンがある。
世界を見ているから世界が存在するのだから、僕が世界を見ることができなくなれば、世界はなくなってしまうのではないか。僕の世界では僕は死なないのではないか ー完全なるうろ覚え
これは、量子力学の観測を自分という主観的存在に当てはめた考え方だ。
物理学的にどうであるかという事は難しい。認識が何を持って発生しているかなんてのは、証明のしようがないからだ。
哲学的に説くなら、独我論的だとも言える。
しかし、これは子供の頃なら誰でも考える事かもしれない。「目を閉じれば真っ暗だ。世界は僕が、目を閉じたら真っ暗になるのだ。僕がいなくなれば世界はなくなるのだ」と。
森見登美彦氏がどういった意図で書いたのかは不明だが
これの証明は出来ない。
5分前仮説や、水槽の脳と同様に、自分の世界の観測点が自分であるという事の証明は自分の存在の消滅を持ってして、自分の世界の認知が消滅するという証明しか出来ず、それは観測点である自分以外の存在が観測することはできない。
何を持って、世界の「存在」を「存在」として定義しているかなんて、説明が出来ない。
見えているものがすべての生物、個人の間で違うかどうは、説明が不可能だからだ。
「存在」と「消滅」の曖昧さが、「自分の死後の世界」の想像の難しさをより際立たせる。
ややこしい話は抜きで「死んだ後の事なんてどうでもいい」
ややこしい話は書いてて何書いてるのかわからなくなるのだけれど。
ぶっちゃけ
- 自分が死んだ後なんてどうでもいい
のだ。
死ぬという事を持ってして、自分にとっての世界の認識は終わる。
その結果、他者とその空間を共有していたか、もしくは量子力学的な観測が自分という存在であったというややオカルトチックな話が事実であったとして、仮に消滅したとしても、それは何の問題もない。
仮に、観測が自分なのであれば死は永遠に訪れないかもしれないというオカルト的なSF話も含めて、自分の死というのは難しい。
難しいというか。理解しようがない。
- 死を想えの価値は、いつか死ぬという事実を受け入れる事による、自由(永遠)の制限にある。
完全なるフリーダムでは人は幸福になれないと、最近書いてるけれど。
選択肢の多さは人に選択しないという選択肢を選ばせる。

選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫)
- 作者:シーナ アイエンガー
- 発売日: 2014/07/10
- メディア: 文庫
制限を持って、道を狭め、その道を冷静に正確に集中して歩く。
これが幸福の作り方だ。
僕たちの命は永遠ではない。
セネカが説いた通り、人生は短い。
故に、死を読み考える。
自分の死と向き合い、考える。
「今」どう生きるべきかを。
その結果の選択が、より善くあるように。後悔の無いように。

- 作者:セネカ
- 発売日: 2010/03/17
- メディア: 文庫