「もう生ききった」と思える人達のための死に場所を作りたい。
と思ったが、結局そんなことは無理な話だという思索の駄文
自殺について
僕は昔から、自殺は選択肢の一つとして尊重されてもいいと思っている。
しかし、自殺には認知の歪みによるものが存在するので、それは修正して、本人に生きるという事が一体どういう事なのか今一度考えるチャンスは与えるべきだとも思っている。
生ききった とは
「生ききる」というのは「死にたい」とは違う。
これを言語化するのは難しいが、完全なる諦観であり、悟りのような感覚。
特別、これといってこれ以上を望まず、受け入れる事。
そういった人たちが住む場所を作りたい。
自殺する場所を作りたいんじゃない
自殺する場所を作りたいんじゃない。
世俗を離れて、寿命が尽きるまで、または自殺せざるを得ない状況にまで陥るその時まで
生ききる場所、死に場所を作りたい。
宗教観の存在ない。上座部仏教の修行場のような場所を。
求めることを終えた人はどこへ行くのか
これは僕の現在の哲学的課題。
僕はブログで色々と世俗的欲求について書いてはいるけど、世俗的欲求をすべて解決できたわけではないので、未だに問題に悩まされている。
簡単な事ではないからだ。
親鸞やガンジーのように「性欲は捨てるの無理や」って受け入れて生きるのも一つだと思うし。すべてを捨てる事には執着はしていない。
ただ、もし、これですべてを捨てられたとして
その先、どう生きるのだろうか。という問題、疑問を感じている。
ドラマ Good place
NetflixのオリジナルドラマにGood place という作品がある。
ネタバレを含むのでご注意。
死後の世界、現世で悪い事をした人たちが送られる悪いところ。
ここが出発点となりすったもんだの末、
主人公たちは、最後に、いいところに行く事になる。
いいところはすべてが満たされている。
捨てる側ではなく、「満たす事」で欲を解決していく問題解決型の幸福で、現代の西洋人らしい発想と思う。
しかし。そんな満たされた状態で主人公達は、結果どうなっていくか。
選択として、選ばれたのは「消滅」だ。
満たされきったら、良いところを去るという選択をする。
存在の消滅。
そして、その存在は別のものになるであろうという雰囲気をうっすら匂わせて終わる。
色即是空、梵我一如的、物理学的ラストだ。
満たすことにも限界がある。
書籍、「死」とはなにか。の中で 永遠の命を手に入れたとしても、延々と満たされ続ける事は不可能であると説かれている。

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版
- 作者:シェリー・ケーガン
- 発売日: 2019/07/12
- メディア: Kindle版
当ブログでもドーパミン的快楽含め、得る事での幸福には脳は順化してしまうということは繰り返し書いてきたが
Good placeは仮に生命に限界がないとして、そして物理的にも体験的にも延々と満たされ続けたらどうなるのか。という結果として「消滅」を幸福のラストとして描かれていた。
捨てることで満たす
Good placeは死後の世界を描いた作品で、永遠の命がある。そして死後の世界が存在し、物理的にも体験的にも満たされ続ける幸福の場所が描かれている。
しかし現実ではこれは不可能だ。
多くの人間が死ぬ時の後悔するのは
「まだ満たされてない幸福がある」と信じているからにほかならない。
未来の喪失への恐怖は代表される死の恐怖の一つだ。
しかし、それをクリアするには、それこそ死を不可避とする生命、いや物理法則の前提を否定する何かしらのテクノロジーを作り上げるしかない。
攻殻機動隊のような世界にでもなれば、人の命は永遠とも言える状態を作り出せる。
しかし、現実、現在の状況では土台無理な話だし。
前述下通り、永遠の命があっても求めることでは「飽きて」しまう。
結果。
たとえ、命が永遠になろうとも。
捨てること。諦観こそが幸福への唯一の選択肢となるのはおそらく間違いない。
死に場所を作りたい
しかし、現代社会ではこの思想は理解され難い。
それこそ、上座部仏教コミュニティにでも入って、瞑想の毎日を送りでもしない限りは難しい。
とはいえ、現代の、先進国にはお金が必要で、こういったコミュニティの形成には困難を極める。
結果的に、仮に思想が素晴らしかろうが、新興宗教的団体としなり、捨てることをうたっていながら、上部の人間は満たす幸福を実践していたりする。
怒られそうだが。言う慣れば大●仏教なんてその最たるもので、信仰を利用して私腹を肥やしてわけのわからない事になっていたりする。
利害関係なしの、生ききった人たちのコミュニティがあればどれだけ楽なのだろうかと思う。
これを作るには
- お金の問題解決
- 足るを知る精神
の2つが必要になる。
前者は資本主義を理解し、生きるためだけのお金を維持する手段として、「お金儲け=惡」というしょうもない宗教観を捨てた上で「生き切るための場所を維持するため」として必要最低限良しとすべき妥協点をもたなければならない。
恵んでもらうのではなく自分たちで作る。
その上で、得る事ではなく諦観による幸福を実践する。
この2つの約束だけ守れる人を集められたらどれだけ楽に生きられるのかと思うけど。
どう考えても無理だ
謎の宗教団体認定されるのが関の山だろうし。
そもそも、ショーペンハウアーが言う通り「他者との対話は最大公約数」にまで落とし込まれる。
所詮。諦観の結果は己の中で完結させるしかない。
結局、幸福とは孤独で。
理解を求め、仲間を求めているうちはまだ、捨てきれていない証拠。
現代人には、世俗に触れつつも、諦観して生きるという選択しか残されていないのだろう。