「自分が何者であるかにこだわらなければ、自分になれるだろう」ー老子
我欲というのは不幸を助長させる。
目の前のものに集中したり、もっているものに充足することが幸福の最善策である事は間違いがないのだけれど
僕たちは実際にはそれを受け入れる事ができない。
自分を大事にするあまり、自分というものを世間の価値観に合わせようとして苦しめている。
これは、親が子を育てる時の心理に似ている。
世間一般的な平凡な幸せを望んでおきながら、何者かになってほしいとも願う。
複雑で奇怪な思考だ。
飛び出るには普通の道を捨てるしかない
人生はトレードオフだ。
なにかから飛び出るなら、それ以外の方向に歩みをすすめるしかない。
世間に溶け込んだ人生を歩むなら、世間の価値観に合わせて生きるべきだが
何者かになりたいならば、世間の価値観から外れなければならない。
そうやって、矛盾した2つの道を同時に歩もうとして、どちらにもなれずにダメになっていく。
どちらでなくてもいいのでは
世間的な幸せを得る事も
特別な存在になることも
僕は、このどちらも必要は無いのでは、と思ってる。
所詮人間の幸福というのは、個人差があり、簡単には定義できない。
- お金
- 家族
- 友人
- 時間の使い方
- 自分だけの時間
- 他人との時間
- モノ
- 外向性の有無
- 思想や哲学
幸福とは何かと問われる時、統計的に優位性のある科学的に立証された幸福論がすべての人に当てはまるわけではないし
かといって、どこかの誰かが説いている「行動こそ幸せ」とか「生産側になる事が幸せ」とかそういった幸福論もまた、万人に共通の概念ではない。
そういった価値観には響く人がいたりいなかったりというのは当然の事で
「科学でこう言われてる事が僕には無いから、僕は不幸なのだ」
とか
「あの人が言ってる条件を満たせてないから自分はまだ不幸なんだろう」
とか
そんな事は思わなくていいと思う。
難しいが、どうしても人間はこういった考え方に埋もれてしまうし、僕も精神病み太郎なのでこういった認知の歪みに取り込まれる事はよくある。
しかし、本当にそれは価値観にすぎず、気にする必要はないし
その枠の中に収めようといった努力も不要だ。
今あるものを大事にする事ができないのなら、たとえ条件を達成したとしても、脳が順化(慣れて)してすぐに不幸を感じるようになる。
老子も、エピクロスも言ってる通り
持っているものに満足できないなら、永遠に不幸になるだけだ。
変わろうとする欲、「我欲」というものに支配された欲
そういったものをすべて殺して、
自分(我欲)を殺して、自分のまま生きるのだ。
好かれたいとか、認められたいとか、多くを得ようとすればするほど、他人に迎合し、他人に従い、科学を信仰し、己を見失い、我欲に取り殺され、心を病む。
そんな気がする。
認知行動療法や、ストア哲学、仏教哲学あたりが、手放しの技術とメタ認知を高めて、こういう毒から人生を守ってくれるかもしれないなぁと改めて思った次第。
変える事を楽しむ事と、変わらなければならないと思う事は全然違うんだ。

- 作者:デビッド・D・バーンズ
- 発売日: 2013/07/22
- メディア: 単行本(ソフトカバー)