隠れて生きよ ~いのいぬ.com~

漫画描きが、漫画や絵の事、作品レビュー、セミリタイアなどについて書くブログ

氷菓と評価の話

言葉とは受け手次第だ。

デリダがそんな話あれこれやってたらしいけど。

言葉、いや言葉以外の表現も含めて、すべてはは「受け手次第」だと思う。

誰かが何かを発したら、それをどう受け取るかは、発信者の意図していない事になる事も少なくはない。

広告問題

昨今の広告炎上問題はまさにこれで

性的に見えるだの人種差別だの。

そういうものの見方をして炎上、糾弾、停止にまで追い込む輩がいる。

が。

そもそも、それはそういう目で物事を見ているからであるという問題には目を向けようとしない。

アドラー的に言うならば、課題の分離が出来てない。(これは日本のアドラー翻訳で出来た言葉らしいが)

問題は、当事者がどう感じるかであって、横槍を挿れて自分の受け止め方を理由に表現を糾弾するなんて傲慢もいいところだ。

氷菓を見てる

アニメの氷菓を見直してると。

自分の捉え方、解釈がブログで書いてる事によっていくなと思う事があった。

折木奉太郎が、灰色である事を望んでいるはずなのに、千反田えるら三人を見ているとその心理が歪む、という描写、及び折木が新八に告白するシーンがある。

新八の、名前忘れた。まぁいいや。

孤独は一度群れにはいると発生する感情

動物実験だけど、ネズミを、一度群れの中にいれ、群れの外に出すと孤独に対する脳の反応がみられたとか。その後群れに戻してもその反応は止まらなかった。

孤独感というのは、集団、社会の存在を認知して、さらにそこに自分が属していない事を認識する事からはじめる感情現象だ。

折木奉太郎は、灰色である事を望んでいるにも関わらず

学校という強制集団生活において、バラ色を認識する。

そこで心がゆらぎ始める。

本来的に彼がどちらを望んでいるか、という点においては、これは物語なので、俗世間的ハッピーエンドへ収めていくのが望ましい。

それ故に、灰色は否定されるのだ。

I scream について

集団の意思によって責任を負わされ、退学処分となる、千反田えるの伯父

彼は幼い千反田えるに、生きながら死ぬことの恐ろしさを伝えた。

彼女はこの悲劇の物語に蓋をするわけだけど

これは現代でもよくある話だなと思ったのは、心についてだ。

他人の価値観に人生を委ねるなというのは、僕がよく書いてる事なんだけど。

生き方を集団の意思によって潰されている人は少なくない。

そうしなければ生きていけないと思っている。

孤独 と 社会的欲求と また、その選択の結果を誰が決めるのか。

孤独と社会的欲求の天秤は常に社会的欲求へ傾く。

僕らが集団に属しなければいけない集団のモデルを形成する事によって、孤高に生きる事を遠ざけている。

これは誰がなんのために作ったものなのか。そういう形の方が都合が良いからなのか。

物語はいつもそういった嘘で塗り固められる。ハッピーエンドだ。

これはよくもわるくも、そうであった方が都合が良いからだろう。

自分の選択の正当性を、何かに委ねる事に。

流されたわけではないと、思い込むためにも。

しかし、

本当にそうなのか。

選ばなかった事を選ぶ選択は、果たしてハッピーエンドではないのだろうか。

一つだけ言えるとすれば、

それを決めるのは、世間ではない。

自分だということだけはゆるぎ用の無い事実。

客観的評価によって、幸福であったかどうかを選別される事に恐れて

自分で道を選ぶ事をやめた人間たちは、

本当に、考えて生きているといえるのだろうか。

氷菓 「古典部」シリーズ (角川文庫)

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