隠れて生きよ ~いのいぬ.com~

漫画描きが、漫画や絵の事、作品レビュー、セミリタイアなどについて書くブログ

欲:求めれば得られるわけではない。基本、結果は運次第。

www.inoinu.com

先日上げたこの記事にコメントいただきまして

自然に生きられればそれに越したことではないが、社会的に容認されるかどうかは別の話で、難しいと思う。

との事。

承認についての記事だったのですが、何についてのツッコミなのか読み取りきれず。

  • 社会的に容認されるというのが、社会的にその行為(自然に生きる事)が許されるのかどうかという事なのか。
  • それとも、社会的に承認を受けるという意味での「社会的に容認されるかどうか」という話なのか

コメントだけではつかめなかったので。

とりあえず、どっちについても考えてみますか。

※ぶっちゃけ、あんま言葉の定義をそのばその場でやらずに勢いで、言葉の定義というか意味するところがかわってってる文章を書いてるもんで、僕のブログは言葉尻を取ればどこかしこで矛盾しまくってますんで、あんま真剣に考えんでくださいね。

1:承認欲を無視した生き方は、社会的に容認されるのか。

一個目。

これは知らんというか、それもまた思い込みのような気がします。

他人がどう生きてるかどうかが社会的なメリット・デメリットによって左右されるという事をもって、是正されるのなら

個人の自由なんてどこにあるんだろう。

この国、そんな社会主義国家みたいな国でしたっけ。

まぁイメージとして…というか暗黙の了解的に、たしかにそういう風潮は存在する。

風潮はたしかに存在するけど、多くの人がその風潮を無視して普通に生きてる。

こういう「お国のため」的な思想はたしかに立派にも聞こえるけど、自分の自由を社会に捧げるのは本当に社会のためだろうか。

それは社会のためだという事で、選択を回避して、「べき思考」の正当化をしているだけなんじゃないだろうか。

僕は、個人は社会を存在させるための存在なのではなく、個人が存在するから社会が存在すると思っているので。

社会的に意味があるかどうかによって個人の行動や思想が決まるのではないと思っとります。

社会の思想や風潮ってのは、有象無象が集まった結果の、マジョリティの思想体系が標準偏差内に収まってるそれであって、イレギュラーはたしかに存在する。

それを弾圧すればその社会は死ぬ。

これは多様性の放棄であり、変化への拒絶。 適者生存は生物の根幹なので

「出る杭は打たれる思想」を無視できる力が社会をより強くしていくんじゃないですかねって。そんなことを思いますんで。

この「容認」が何を指すのかによるところですが。

社会の標準思想の中で生きる事に甘んじていることは、社会のためではなく、考える事の放棄かもしれないなぁとかそんな事思いますよ。

目立てって話ではなくてね。

こうあるべきに従う事=社会のためとは言えないって話。

2:社会的に承認を得られるかどうか

2つ目。容認が「社会的に承認を得られるか」という意味だった場合の話ですが。

これはこれで、むしろ、飛び出てる人って受け入れられた時のパワーでかくないですかね。

僕は、社会的に承認を得られる事 = 多数派の思想体系に沿って生きる事だとは全く思ってないです。

むしろ、自由な発想で生きてる人、普通の人生とは違う人の方がある種、社会的承認を得てるように思うんですよ。

たとえば、マツコ・デラックス。

特殊だけど社会的な承認を得られてますよね。

もちろん、女装家?LGBT?なんて言うのがベストなのかわからないけど、性的マイノリティで社会的承認を得てない人も沢山いるし、ひどい人生を送っている人もいるでしょうから、これが特殊な例である事は間違いないんだけど。

白黒思想で、多数派の思想体系に沿わなければ、社会的に承認は得られないわけではない事は証明されてます。

なので、別に関係ないんじゃないでしょうか。

もちろん、場合によってはキツイ事も沢山あるだろうけど。

それはケース・バイ・ケースで、別に社会に沿おうと生きたとしてもきつい場合もある。

問題は 「承認される事を求めてるかどうかではない」

「求めれば得られる」というのも幻想だってのは何度か書いてる話だけど。

www.inoinu.com

結局、当たるも八卦当たらぬも八卦、数撃ちゃ当たるがこの世の常で

それは承認においても同じ事だと思ってるんですよね。

人間関係レベルの個人間の話なら、これは情のGive&Takeの話になってくるけど、今回は社会的承認の話なのでその話はおいておいて。

「その社会の思想体系に沿って生きる」ってのは一見理にかなってるようだけど、希少性の喪失でもある。

それは決して社会的承認を得られる行動として正しいとは言い切れない。

平凡であるというのは、溶け込んで生きるという事で

それが出来る人間はそもそも承認を求める事に苦しんだりしない。

所属の場所を見つけて溶け込める事ができ、なおかつ平凡である事に抵抗感を持たない人間だから。

それはもはや、幸福論として一つの正解だし、悪い事ではないけど。

多くの人はその道を歩んでいないというか、だからこそSNSのLikeをおいかけたり、誰かに好かれる好かれないに必死になってるんですよね。

好かれるモデルケースをおいかけて生きてるから、承認されない二番煎じ以下に成り下がる。

そんで、求める求めないは、認められる認められないには関係がないんですよ。

求める求めないは自分の課題だけど

認める認めないは他人の課題ですからね。

そもそも他人の課題をコントロールしようとすんなってのが↑記事の主題なので結局ここに落ち着きますけど。

社会に認められるかどうかと、社会に認められる生き方をするかどうかは、割と関係ないと思います。

僕はこういうものは不道徳だし自分の倫理観としてどないやねんとは思うけど。最悪、社会的にとんでもねぇって事件起こしてるような人間の書籍すら売れる世の中なので、それは一種の承認だし、その書籍をもってして「認められてしまう」可能性もある。

ここの歯車の調整は、自分に出来ることじゃなくて、社会に存在する一人ひとりが行う事なんですよね。

100人いたら100人全員に愛される人間なんて存在しませんからね。

多数の中のほとんどは無関心。一部が批判者で、批判者より少し多くの援助者が現れるってのがユダヤ人に語り継がれてる教訓らしいですが。

社会的な承認ってのはそういうものだと僕は思います。

まとめ

なんかすげぇなげぇ話になってしまったけど。

  • 社会に認められるかどうかは他人の課題なので気にするな
  • 生きたいように生きよ
  • でも他人に害をなして…ってのは個人的にはよろしくないと思うけど。

みたいな話でした。

猿でもわかる嫌われる勇気

猿でもわかる嫌われる勇気