ネタバレあるよ。
とりあえず端的にまとめるよ。言語化技術の本を真似てまとめてみるよ。
ドーラと一緒に大冒険で描かれているのは「自己表現と他者承認」だ。
ドーラは、冒険家の娘としてジャングルで暮らしている。
ある日両親は冒険家として未熟であるドーラに対し、都会で友達を作る道を人生の選択肢として提示する。
高校生活の中で自分が都会の若者と圧倒的にズレている事を理解した上で、ドーラは自分の表現を曲げない。(曲げる事ができないという方が正しいのか。)
そんな中で舞台は、悪いトレジャーハンターの策略により、友達を巻き込む形でジャングルに移る。
トレジャーハンターに襲われつつ、ジャングルでの冒険を通して、友達からの承認を得ていく形でドーラは成長し、
エンディングでは、どう生きていくか、自分で自分の道を選択をする事となる。
承認欲求というより社会的承認の物語
上には承認欲求というより社会的欲求へのスタンスと考える方が正しいかも。
とりあえず、わかりやすいように他者承認って事でまとめてみたけど。こんな感じ。
親戚の少年が出てくるんだけど、その少年は都会の高校生活に対して、郷に入れば郷に従え精神で「合わせて生きている」。
対してドーラは不器用であるがゆえにそれが出来ず、自分は自分であるという表現しか出来ない。
それによって圧倒的に孤立してしまう。
しかし、舞台がジャングルに映ったことで、少数の生徒とではあるが、関係性を深め、社会的欲求を満たす関係性(友だちになる)という状況を獲得する事になる。
「合わせる」というのは多数派のとる処世術だが
多くの人は、この従兄弟の少年のように「合わせて」生きている。
周りからどうみられるかどうかといった事を気にして。
これはアドラーの承認欲求論に通じるところがあるが、要は「客観的に見た自分の良し悪し」を演出して生きている。
承認欲求にとらわれる事に苦しむ現代人が多い理由はここにあると思う。
他人に合わせて、客観的に良い自分を演じる事は、それは本来的な自分ではなく、偽物だ。
肩に力が入った状態で生きているわけだから、ストレスが貯まるのは当たり前。
良くも悪くも、主人公のドーラにはそれが出来ない。
ソレ故に自然体でソレ故に悩むのだけれど。
受け入れられないのは辛い事。
合わせたとしても合わせていなかったとしても、ドーラもいとこの少年も学校という空間で生きる事に苦悩している事には違いがない。
結果として、合わせて生きて受け入られるという成功体験を積んだ場合、それは多くの人が経験する通り、一生他人の人生を生きる事になる。
確かに受け入れられないのは辛い事だけれど、合わせて成功したとして、それは辛い人生を送る事に何ら代わりはない。
受け入れられるなら、本来的な自分であるべきではないだろうか。
映画の問題点
- 元ネタがアニメで、そのアニメに対するメタい発言がある
- 子供向けで、テンションがやばい。
- ぶっちゃけ乗りがよくわからん。
まとめ
おもろいかおもしろくないかと言われると、よくも悪くもぶっ飛んどる。
おじさんには辛いものがある。
以上。