隠れて生きよ ~いのいぬ.com~

漫画描きが、漫画や絵の事、作品レビュー、セミリタイアなどについて書くブログ

内向人間は外交的になろうとするな。内向的である事を受け入れろ

自分の中に毒を持て<新装版> (青春文庫)

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内向的である事は、決して悪いことではないそう思い込んで、こだわっているから暗くなり、余計、内向的にしているんじゃないだろうか。 内向的である事をマイナスに考えたり恥じちゃいけない。 生きるという事を真剣に考えれば、人間は内向的にならざるを得ないのだ。

外的に存在する世俗的な価値観は、突然崩壊する日が来る。

ボクは、最近瞑想をコツコツと再開して、少しの間悟りまがいな状態になったりという経験をしたわけだけど。

生きる意味ってのは結構世俗的で、どうも掴みづらく、多様化しすぎているように見えて、実はあまり種類がなかったりする。

多くの場合、それは依存だったりするんじゃないかと思う。

外的要因に自分の生きる意味を見出そうとすると、それを失った時生きる指針を失う事になると思う。

  • お金
  • 人間関係
  • 承認

このあたりが世俗的な、直近の生きる目標となってる人が多いと思うし、それは別に悪い事ではないと思うけど

割と盤石な価値観だと思われてるこういった諸々は、突然価値観が吹き飛んでしまう事もあるという事を忘れてはいけない。

ボクは最近、お金への執着が薄まってきていて、それについては別記事でまとまりの無い文章で書いてきたけど。

ざっとまとめると

  • お金はツール
  • 経済的理由の達成と幸福は無論イコールではない
  • 自由を貫くにも能力が必要で、お金でそれは買えない
  • 絶対的な円(貨幣)の価値は存在せず、その他金融資産と相対比較する意味があるのかどうか
  • 人間の存在は「散逸構造」

などなど、こんな感じで。

お金という一般的に非常に厄介なものも、資本主義経済のルールを理解して、コスト削減とある程度の稼ぐ力(人的資本)を身につけると、突然目標値としての価値を失ったりする。

こんな書き方をすると、金金人間だったけど、お金手に入ったらわけわかんなくなりました、くらいにしか取られないかもしれないけど。別にありあまる大金があるわけでもないし、そういう事ではなくて。

目標を立てて、それをこなしていくという事の一つに「お金」を利用していて、それを達成したら目標値として使えなくなってしまった。という話し。

そして、これが本当に厄介で。

人間関係や承認でも起こりうる事だと思う。

ボクは今の所経験はないんだけど、多くの承認を得てるはずの人が突然自殺したり、家族を失う事で後追い自殺をするのは、言わば人間関係への依存や、承認への依存というかこの場合は妄想のようなものが、崩れてしまった結果ではないかと推察してる。

信用とはそういうものだと思う。

自分が信じられなくなったら、その時点で意味をなさなくなる。

内側にしか「生きる真理」は存在しない

  • 散逸構造としての人間の役割を果たす

これが最近のボクの価値観で、これは宗教ではなく「物理学」によるものだというのも、信頼性が高いと感じてる。

www.inoinu.com

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最近ちょろっと読んだ本の「時間は存在しない」にも書かれているけど、モノってのは一瞬その形状を作り上げているにすぎず、そこにそれとして形が固定されて存在してるわけではないらしい。

元々は池谷先生の絵本で知った概念だけど。

時間は存在しない

時間は存在しない

生きているのはなぜだろう。 (ほぼにちの絵本)

生きているのはなぜだろう。 (ほぼにちの絵本)

ボクは、お金に対する価値観の喪失を、人間関係にシフトさせる方が健全だと思うので、それを体現しようとはしているけど

しかし盤石な価値観として、そもそもの物理現象としての人間の存在を定義する価値観を、信じる事を土台にしてみようと考えてる。

そして、これは割とすんなり受け入れられた。

宗教的、哲学的な価値観を学んだおかげでもあるので、物理学信仰ではない。

物理学、宗教、哲学、仏教哲学、などを学んだ結果とともに、お金の価値観の喪失による目標値の見えない状態を体験したからこそ、受け入れられた事で

これを言語化するのは非常に困難な事なんだけど、価値観とはそういうものなのかもしれない。

外に向かって、自分を満たす、自分の存在を定義するものを追いかけ続けても、キリがないし、それはいつか壊れる日がくる事も覚悟していかなきゃいけないと思う。

人間は、死ぬ時は一人だし。外的要因に生の喜びを見つければ見つけるほど、死ぬという事を恐れる事になる。

人は内向的であればあるほど、内側を観れば観る程、自己と向き合い、価値観の再定義を行う事ができる。

死ぬ瞬間に外的な価値観は持っていけないと気づかされるのは苦痛だろう

もちろんそのためには、僕自身が経験したように、今持っている外的な幸福要因や目標値としての存在の崩壊を経験しなければいけないかもしれないし

それは苦しい思いをする事は重々承知の上で言うけれど

外的な幸福や価値を見失った時、別の外的なものに心変わりをしていれば、いつか飛び移る価値観が無くなる日はきっとくる。

それは自分の死期を自覚した瞬間だ。

内向的である事は、ラッキーな事だと思う。

生きているという事と死ぬという事を理解するためには内省するしかない。

もし、この物理学的人の存在の価値を理解できるなら、生ききる事の大切さと、死んだ後でも自分の価値観が喪失せずにその役割を果たし続ける事が出来る事がわかる。

ブッダの時代

ブッダの時代というか、東洋哲学は「わかっている人はわかっている」という哲学的側面があるらしく、ソレ故に宗教化しやすいらしい。

西洋哲学もそういった側面はあるだろうけど、言語化して説明する事がよしとされていて、ソレ故に何言ってんのかわかんないような文章がゴロゴロ残ってるのかもしれない。

ボクがここで話している、散逸構造の話しは。

ウパニシャッド哲学、バラモン教のヴァーリ経典に記されている「梵我一如」と同一視していい考え方だと思ってて

現代人は本当にラッキーだと思う。

昔は

何言うてるのか全然わからん

って事が、物理学でわかってしまうのだから。

でもなぜ、こんなに人は自我にとらわれているのか。包括的に学ばないと、これらが結合しないからかもしれない。

物理学と太古哲学を合体させるのは行き過ぎではと思われるかもしれないけど。

昔は「哲学」が唯一の学問で、それが分解されてあらゆる学問に変わっていった。宗教も物理学もその一つだから、これでいいと思ってる。

そんでもって

これはボクの価値観なので、「正しいか正しくないか」はどうでもいい。

新興宗教を組み立てるわけでもないし、ただ、ボクがボクを楽に活かすための指針にしてるだけ。

これがあるかないかで、楽に生きられるかどうかが変わってくる。

それは、ボクが外交的な人間だったら、絶対に見つからなかったという事だけは記しておきたい。

価値観の再定義は相当な難解な作業だ。

だから多くの人は奴隷のように生きる。価値も仕事も金もすべて人に決断をまかせて生きる。それが楽だからだ。

もしそうしたいなら、そうすればいいし、それは個人の価値観だから尊重されるべきだと思う。

でもそうなりたくないなら、内省しないといけない。

これはひどく難しいし苦しいし、孤独な作業だけど。

その見返りはきっとある。

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