頭の整理も兼ねて、今もってる経済的自由達成への知識をざっとまとめてみます。
経済的自由とは
- 「働かなくても経済死しない状態」
定義は人それぞれだろうけど、最低限の生活費を資産収入「等」でカバーする事で上の状態を達成する事かなと思います。
必要な金額の目標を算出
最低限の生活費×25倍
- 生活にかかるすべての固定費(最低限の生活費)を計算
- それを25倍した金額が「資産収入で最低限の生活費をカバーする金額」
これを達成することが目標になる。
4%ルールってやつだけど、細かい問題(為替リスクやインフレ、税金など)はあるんだけど…一応これが達成できれば経済死する事はまぁまずない。
- 例:年間の生活費固定費を200万とする場合
- 必要金額はその25倍の「5000万」
こんな感じ。
家庭環境等々色々あるので細かい事はスルーする。目標値出すだけだから。
生活防衛費を上乗せ
投資以外に直近で使うお金は確保しておくこと。
- 生活費は6ヶ月~1年分くらい
- 発生予定のライフイベントが控えてる場合はそのお金
- 子供の学費や結婚など
これは現金で保有しておくこと。
つまり上の必要金額+ 生活防衛費になる。
- 例:生活費200万なら5000万+ 100~200万 + ライフイベント費用
これができたらもう安心。
セミリタイア達成。(アリリタじゃないよ)
セミリタイアを選ぶ理由:働く事について
ぼくの働く意味は
- 脳トレ
- 人的資本(自分) を高めるため
- 変動費(娯楽等)まで金融資産でカバーしようとすると時間がかかりすぎる
- 働く事が「生活費」から「やりたい事を」になればそれで十分
- 若いうちにしか出来ない事はきっとある。
- 年齢関係なく「その時したい事」を大切にするのも大事
アリリタして、脳に負荷のかからない生活してるとまぁボケる。ボケるとマズイ。
なんのためにリタイアしたのかわからない。
「働く=辛い」ってのは誤解で、元来仕事ってのは楽しいものだったりする。
だけど、それが「生活のため」となると話が変わってくる。
セミリタイアの目標とは、一体なんなのか。
これはあくまでも僕にとっての価値観だけど
- セミリタイアを目指した理由は
- 生活のために働かなくて良いという安心感を得ること
- 好きな事で気楽に好きなだけ働ける状態を作る事
こんな所だと思う。
スキルアップは僕の中ではゲームをしてるような感覚だし(一時期お金お金~ってなってて忘れてたけど)、自分が成長するのは楽しい。出来る事が増えるのは楽しい。
だから、資産が莫大にあっても、結局「ほどほどには働く」というのが現段階での僕の結論。
これはきっと、結構多くの人に当てはまると思ってる。
人間って社会的ないきものだから、自分が必要とされてるかどうかって充実感に影響すると思うんですよ。
良くも悪くも、ガチで引きこもって何もせず社会に一切関与せずに平気で居られる人ってのは、特殊なんですよね。
だからほどほどに働くというセミリタイアはいい選択肢だと思っております。
完璧を求めなくていい
生活費の25倍ってのは4%ルールなんだけど、これはもっと小さくても別にOK。
たとえば、ちょっと足りてない部分を好きな仕事で補えるだけの収入が作れるなら、それで成り立つわけで。
その辺のバランスは大事かなと思う。
この世界には完璧主義な人がたくさんいて、僕もその一人だったんだけど。
完璧求めてるきりがないので、複合的に考えるのがいいと思うんですよね。
- 嫌な仕事で生活費を稼ぐ
- 好きなことだけで生きる
- 金融資産収入 + 嫌な仕事を少しして生きる
- 金融資産収入 + 好きな仕事をして生きる
- 金融資産収入のみで生きられる状態 (だけど、働くor働かない)
形は色々だけど、どれか一つで完璧に…なんてやってるとやっぱ辛いから、「3」「4」あたりの生き方をまずは目指して、そこから最終的には「5」の状態を目指して条件だけ達成できれば相当安心だろうなぁくらいの気持ちでいれば良いんじゃないかなぁと。
バランス大事。
まとめ
- 生活費の計算
- 目標値の算出
- 生き方の考察(セミor完全リタイアか)
こんな感じ。
余談 価値観の喪失時の危うさ
現状への不安で「セミリタイアしたい」って思ってる人って多いと思うけど、現状への不安からの脱却が目的化すると
実際それを達成したところで、僕みたいに哲学に取り憑かれて価値観が変遷する事で世俗的に生きられなくなる可能性もあるので、後の事も考えて、ほどほどに少しずつがええでよ。
ま、僕はこれで幸せなんだけど。
価値観喪失からのニヒリズムの段階は結構辛かったので、経済的自由も含めて、条件達成で幸せになれると思ってたらお間違いだぞって事はここに記しておきたい。
幸せかどうかを哲学し内省するのって、なかなかに根深かったぞ…。
今生きてるからいいけど、最悪あの段階は死んでてもおかしくない状態だと、今振り返ると思う。ニヒリズムって実際体験するとなかなかに半端ない。
経済的自由とかお金からの解放は、苦痛からの脱却ではあるけど、それは同時に「みんなと同じレール」から抜ける事も出来る状態なので、その場合はまじ気をつけてね。
余談:自分で決める難しさ
アルスラーン戦記だったか、良かれと思って奴隷を解放したら、生き方がわからず混乱したって話があったの。
ハガレンの序盤にも教祖を倒した後にその町が荒れたって話あったけど。
生き方を自分で決めるすごく大変なんですよ。
従って苦しんで、束の間の幸せを酒やSNSで感じてる方が、どれだけ楽か。
もしそれを自分で答えを出す自信が無いと思うなら、早めに哲学した方がいい。それか、他人のレールの上を生きる事を続ける方がいい。
荒川先生はハガレンで梵我一如的概念を説いてて、すごく哲学的な思索を重ねた人なのかもなぁとか。アルスラーン戦記は原作ありだったはずだったから、その辺はよくしらんけど。
ま、つまるところ。
「他人の価値で生きるな」ってのは僕が再三描いてきたことだけど。
これは今、なんとか僕が乗り越える事ができたから言える事で、どんな事でもそうだけど、万人に良しとする方法なんてないんだろうねぇ。
苦しみから解放されれば必ず幸せになれるわけではないし、それでも内省し乗り越えられるならいいけど、結果何を生むかなんてわからないからね。
きっと、乗り越えられずに死んだヤツや狂ったヤツってのは今までに何人もいると思う。
僕がこれを許容できたのは、優れていたからでもなんでもなく、ただ運がよかっただけだと思ってる。
それは根っからのネガティブでメンタル対処方法をたくさん勉強してたからってのもあるし、哲学に出会えたという事もあるし、絵を描くという好きな事が一つあったからかもしれないし。何が原因かわからないけど、本当にただ、運がよかっただけだったと思う。